05 Jun


Memory
Encounter 1969-1986
Dedicated to a small university on the hill 

TANAKA Akio
Sekinan Library
Tokyo
2021
The 2 Edition 2022


邂逅 1969幎-1986幎
䞘の䞊の小さな倧孊に


ç”°äž­ç« ç”·
石南文庫東京
2021幎
第2版 2022幎



Contents

Title
Frontispiece
Preface
Gratitude
Beginning
Looking back
Before
1967-1976
After
Afterword
Reference
From Author


衚題
口絵
序
謝蟞
初めに
振り返れば
以前
1967幎ヌ1976幎
以埌
あずがき
参考文献
著者から



Frontispiece

『悪魔のしっぜフランスの昔話ヌ』 
線者 華埜井銙柄・牧野文子  
1972幎3月1日 第1版 䞉修瀟
© 䞉修瀟

『新フランス語文法』 
著者 華埜井銙柄・䜜田枅・井䞊範倫・䜏谷圚昶 
1977幎 4月1日 初版 駿河台出版瀟
© 駿河台出版瀟



Preface

Preface序本論考は37歳で早逝した仏文孊者、華埜井銙柄はなのい・かずみ先生 19391976 が、東京郜町田垂に所圚する和光倧孊に、開孊2幎目の1967幎、仏文孊専任講垫ずしお着任し1976幎に逝去されるたでの研究ず教授に぀いお、珟圚たどり埗る同時期の資料を䞭心ずしお掚察しようずするものである。私は1969幎4月に、東京倖囜語倧孊䞭囜語科から和光倧孊人文孊郚文孊科䞉幎に線入孊し、1971幎3月に卒業した和光倧孊の第2回卒業生の䞀人であり、今から振り返れば、この「小さな実隓倧孊」の草創期のたさしくきらめくような日々の䞭で、たった8歳幎䞊の先生に出䌚い、珟圚に至るたで深い远憶ず圱響を受け続けおいるその意味を、1947幎生で2020幎の今倏で73歳ずなった今、あらためお私自身の詊行錯誀の連続であった青春の日々を問い盎しながら、確認しようずするものでもあった。深い圱響を受けながら、私は先生ず盎接お話しするこずは䞀床もなかった。私は先生が持たれたフランス語初玚の倚数いた受講者の䞀人であり、授業の䞭で私の音読が良かったずいうこずを先生がほめおくださったずいうこずを、先生の研究宀に係わっおいた友人から聎いたこずがほずんど唯䞀の぀ながりであった。昭和45幎1970幎に先生は文孊科専門科目フランス文孊ずしお、ノァレリヌの『テスト氏』を遞び、同幎の講矩芁目で、先生が「『テスト氏』をめぐっおノァレリヌの文孊の方法を探る」ず曞かれおおられたのを読み、心から受講したいずおもいながらも、「極めお難解なフランス語であるが原則ずしおテキストは原文のものを甚いる。」ず埌続しお曞かれおおられ、圓時の私のフランス語の胜力では䞍可胜ず刀断し、受講を断念したこずをありありずおがえおいる。このこずは今も私の青春の倧きな悔恚のひず぀ずしお、消えるこずはない。私は昭和54幎1979幎4月に、人文孊郚人文孊専攻の専攻科生ずしお再び倧孊に戻り、平安朝挢文孊を孊び始め、翌幎昭和55幎1980幎3月に修了、同幎4月から昭和61幎1986幎3月たでは6幎間人文孊郚研究生ずしお、䞻に平安朝の仏教兞籍を孊んだ。しかし倧孊に通い始めおたもなく、私は華埜井先生の姿をたったく芋るこずがなく、盎接䌝えられたこずではなかったが、先生がすでに逝去なさっおいたこずを知った。1980幎代の和光倧孊は、開孊たもなくの頃よりもよりはるかにきれいになり、より倚くの孊生が掻発に孊び行動しおいた。それは本圓に玠晎らしく誇らしくおもわれたが、私の䞭には静かな喪倱感が広がっおいた。もはやあの端正な先生の姿をキャンパスに芋るこずはなく、その講矩に列垭するこずもできないこずを事実ずしお知ったからであった。1986幎3月に私は研究生を終了し、同幎4月に東京郜立川垂に石南文庫 Sekinan Library を蚭立し、研究生以来の倧正新脩倧蔵経を読み続けるかたわら、甲骚文・金文を䞭心ずした叀代挢語の䞭から文字の本質を探究する方向を探るこずずなった。それが䞀぀の明確なPaperずなったのは、2003幎春に曞き䞊げた, On Time Property Inherent in Characters、「 挢字に内圚する時間性に぀いお」、が嚆矢ずなった。 2003幎の倏以降、私は文字から蚀語の基底をなすずおもわれるLanguage Universals 蚀語の普遍性の䞭に、みずからの䞻題を芋い出し、ひたすらに Paper および関連した Essay を曞き続ける日々が続くこずずなった。しかし、蚀語の根底は果おしなく広く深く、蚀語䜿甚が人間の行為である以䞊、い぀かは人間ずはなにかずいう問いが必然ずなる䞭で、私はみずからの䞻題を求めお圷埚しおいた青春の日々の意味を考えるこずずなった。その䞭で、私の青春ずかさなった近代ずいう䞍思議な時代の重みずな぀かしさがふたたびみずからに垰っおくるようになった。私にずっお近代ずは、フランスのブレヌズ・パスカルからシモヌヌ・ノェヌナの哲孊的思惟であり、ランボヌ, ノェルレ―ヌそしおラフォルグに至るフランスの象城詩の䞀矀であった。私には難解であった批評にノァレリヌがいお、昭和45幎1970幎の和光倧孊人文孊郚文孊科の専門科目で華埜井先生がノァレリヌの『テスト氏』を講矩しおいたこずが、昚日のように浮かび䞊がっおきた。私にずっおの青春の䞭に、こうしお華埜井先生が確固ずしお定䜍し、私はあらためお先生の所圚をみずからに問う䞭で、先生の埡実家に連絡をずるこずを考えおGoogle で怜玢し、お電話をするこずを遞んだ。昚幎2019幎の秋になっおいた。その日のお電話はお留守だったので、私は「もし間違いでしたらお蚱しください。私はか぀お華埜井銙柄先生からフランス語の初玚を受講臎したしたものです。先生のこずをお䌺い臎したくお電話臎したした」ずメッセヌゞを残したずころ、その日の倕刻に、華埜井究氏からお電話をいただき、「華埜井銙柄は確かに私の兄で、今幎で亡くなっお45幎ずなりたす。胃癌で亡くなる末期は、圓時の医療の状況から随分苊しかったようです」ずのお話しを受けたした。私はこずばを倱い、たたお電話を臎しおもよろしいでしょうかずお䌝えしお、電話を終えたした。華埜井先生のこずを曞きしるすこずは、私の䞭で、い぀かひず぀の責務のようなおもいずなり、できるならば圓時の確実な資料に基づくこずを考え、その埌華埜井究氏からは貎重なお手玙をいただく䞭で、倚くの機関・図曞通等の方々のご理解ずご揎助によっお貎重な資料が少しず぀集積し、 ここたで曞き続けるこずができたこずぞの感慚は深く、心より感謝申し䞊げたす。末尟ずなりたすが、本論考を曞きしるす契機を決定づけおくださった、華埜井先生の実匟でいらしゃる華埜井究氏に深く埡瀌を申し述べたす。ご兄匟が青春の日々に亀わした䌚話が、銙柄先生の和光倧孊での研究ず教授の根底に深く存するこずを、お手玙・お電話を通しおお䌝えいただきたしたこずが、この論考のすべおの始たりでした。
ON TIME PROPERT INHERENT IN CHARACTERS東京2020幎12月24日田䞭章男



Gratitude

Gratitude謝蟞本論考を䜜成するにあたり、倚くの方々よりご支揎ずご協力をいただきたした。深く埡瀌を申し䞊げたす。実匟でいらっしゃる華埜井究氏には、䞀昚幎2019幎に突然お電話臎したしたこずから始たり、日々ご倚忙の䞭で、その埌懇切なお手玙をお送りしおくださいたした。たた私の现かな質問に察しお、華埜井様ず銙柄先生ずの青春の日々の貎重な䌚話等をお䌝えしおくださいたした。それらの䞀蚀䞀蚀が、銙柄先生の著䜜ず和光倧孊での講矩に深く反映しおいるこずをしばしば実感臎したした。本論考に察する私の構想がひず぀の確実な具䜓性を䌎っお浮かび䞊がっおたいりたしたのは、ひずえに華埜井究氏の䞀昚幎からのお電話ずお手玙の賜物ず感じおおりたす。あわせお未熟な私の未知の論考の䜜成に察しお、あたたかな励たしのおこずばをいただきたした。ここに深く埡瀌を申し䞊げたす。和光倧孊教孊支揎宀の皆様は、ほが半䞖玀前ずなりたす、華埜井先生の講矩等の実態を瀺す、圓時の講矩芁目を確認するずいう困難なお仕事をお願い臎したしたずころ、こころよくお匕き受け䞋さり、残存するそのすべおを耇写しおくださいたした。たた私にはたったく未芋の、和光倧孊の新しい資料たであわせおご送付くださいたした。改めお埡瀌を申し䞊げたす。このの二぀の和光倧孊の根本資料によっお、1960幎代から1970幎代の和光倧孊においお、開孊二幎目の1967幎から勀務された華埜井先生の研究ず教授の抂芁ず先生の倧孊に臚む姿が、明瞭ずなっおたいりたした。ありがずうございたす。和光倧孊附属梅根蚘念図曞・情報通の職員の皆様は、私のたび重なる现かな質問に察しお、子现な調査ず点怜をなさっおくださり、その結果を耇写を含む封曞およびメヌルで、幟床もご連絡しおくださいたした。本来の業務を超えた私事のお願いに察しお、貎重なお時間を劎されたしたこずに深くおわび申し䞊げ、たた厚く埡瀌を申し䞊げたす。論考に察するあたたかな励たしをいただきたしたこずも忘れられたせん。私が珟圚たでに確認しおいたす、華埜井銙柄先生の著曞は二冊ですが、いずれもほが半䞖玀前の刊行で珟圚はいずれも絶版ずなっおおり、お願いしたした諞図曞通の Reference や Amazon 等からも、今ではほが垌少な貎重曞に類し、その珟物の確認がなかなかできたせんでした。もしかしたら出版元に残存しおいるこずがあるかもしれないずいう淡い期埅をもっお出版瀟二瀟にお電話したずころ、二瀟ずもに、か぀お出版したこずは蚘録されおいるが、すでに絶版のため圚庫がありたせんずのご返事でした。私のそのずきの倱意もあったのかもしれたせんが、電話口でこずばを継いでくださり、念のため䞀応倉庫等を調べおみたすず面倒なお仕事を匕き受けおくださいたしたずころ、二瀟ずもに絶版埌の実物が珟存しおいるこずを確認しおくださり、圓時の販売䟡栌で郵送しおくださいたした。これは本圓にうれしいこずでした。担圓の皆様、ありがずうございたした。
『悪魔のしっぜフランスの昔話ヌ』 線者 華埜井銙柄・牧野文子  1972幎3月1日 第1版 䞉修瀟『新フランス語文法』 著者 華埜井銙柄・䜜田枅・井䞊範倫・䜏谷圚昶 1977幎 4月1日 初版 駿河台出版瀟華埜井先生の二冊の著曞は、このように珟圚ではずもに皀芯本に属し、実芋が困難ずなっおいたす。私はその衚装だけでもお䌝えしたいずおもい、䞉修瀟および駿河台出版瀟に本論考の Frontispiece 口絵ずしお掲茉臎したき旚を連絡臎したしたずころ、二瀟ずもに掲茉の蚱諟に応じおくださいたした。ここに Copy Right Mark © を蚘茉しお、本論考の巻頭に衚瀺できたした。厚く埡瀌を申し䞊げたす。たた、線入孊から卒業に至る節目節目で、垞に私を芋守っおいおくださった囜文孊の宮厎健䞉先生の著䜜に぀きたしお、各皮の Reference をもっおしたしおも未確定であった事項に぀いお、 ご倚忙の䞭で粟査し正確な情報を提䟛しおくださいたした、ゆたに曞房出版郚に深く埡瀌を申し䞊げたす。 è¯åŸœäº•å…ˆç”Ÿã®ã”専門でいらした仏文孊研究に぀きたしおは、私の知芋は極めお乏しく、委现におきたしお、名叀屋倧孊文孊郚フランス語フランス文孊第2、筑波倧孊附属図曞通および日仏䌚通図曞宀にご盞談臎したしたずころ、折り返し䞁重なお電話およびメヌルを頂戎し、本論考の基盀を敎えるこずができたした。ご倚忙の䞭、心より感謝申し䞊げたす。
最埌ずなりたすが、華埜井先生の著曞・論文・随想およびそれらの関連事項等の现かな状況確認に぀きたしお、倚くの方々が、私の申し出をこたやかに確認しおくださった䞊で、私の予想を超える现郚に至るたで、調査および远跡をおこない、お電話およびメヌルで連絡しおくださいたした。敬称は略させおいただきたすが、 列蚘しお厚く埡瀌を申し䞊げたす。皆様のご理解ずご支揎がなければ、内容が半䞖玀前に遡る本論考は執筆できたせんでした。ありがずうございたす。

秋田県立金足蟲業高等孊校朝日新聞お客様オフィスNHK ふれあいセンタヌ攟送囜立囜䌚図曞通関西通䞉修瀟 äž‰çœå ‚駿河台出版瀟筑波倧孊附属図曞通東京郜立䞭倮図曞通東京郜立倚摩図曞通名叀屋倧孊附属図曞通名叀屋倧孊文孊郚フランス語フランス文孊第2日仏䌚通図曞宀日本キリスト教団出版局ゆたに曞房和光倧孊䌁画宀和光倧孊教孊支揎宀和光倧孊附属梅根蚘念図曞・情報通
東京2021幎3月14日田䞭章男

远蚘本論考の 「121966-1977 Paper, essay and two books of Hananoi Kazumi」においお蚀及した、䞉省堂から1984幎に刊行された熊野正平先生線纂の『熊野䞭囜語倧蟞兞』に぀いお曞き添えたい。
本曞の刊行に至るたでの経緯は既に本文においお簡述したが、1985幎11月3日に朝日新聞朝刊に掲茉された䞉省堂による本曞の広告文が簡明な䞭に委现を尜くしおいるため、本論考ぞの再掲を果たしたく同瀟に申し出たずころ、蚱諟しおいただきここに厚く埡瀌を申し述べたす。その広告文にもある通り、本曞は1955幎の線纂開始から1984幎の刊行に至るたで実に30幎を芁し、先生ご自身は1982幎に刊行を目前にしお没せられた。私は熊野先生のご生涯ず本曞の刊行に぀いお、䞀橋倧孊で同僚でいらした䞭囜哲孊の西順蔵先生より矀銬の霧積枩泉に宿泊した折りに䌺った。1985幎の3月であった。私は垰京埌、和光倧孊生協の曞籍郚に泚文したが、同幎7月3日にその新装版を賌入した領収曞が本曞の奥付に挟んであった。私が日付にこだわるのは、本曞の発行日等が係わるからである。本曞の限定特装版が発行されたのは、1984幎10月10日で、なにげなくおもわれるかもしれないが、この日は少なくずも私が䜏む東京西郊の町等では、十日倜ずおかんやの日で、この日はむかし、倜子䟛たちが藁筒わらづ぀を持っお「ずおかんや、ずおかんや」ず唱えながら地面をたたきながら歩いた日で皲の収穫祭であり、同時に地面䞋のモグラ陀けの意味も有しおいた。私が所持しおいる新装版は1985幎7月1日の発行であるが、この版の末尟の「あずがきに代えお」が同幎4月8日に曞かれおいる。この日は灌仏䌚かんぶ぀え、釈迊誕生の日である。本曞の広告が掲茉されたのは、1985幎11月3日、文化の日であった。この曞の刊行に尜力された䞉省堂は、収穫ず誕生さらに文化継承の意を蟌めお先生をしのばれたず、私は理解しおいる。孊問を愛し、曞籍ずその保存さらにその粟査を愛し、曞籍の刊行を愛する方々によっお、歎史が静かに深く継承されおきたこずに、私は今あらためおその末端にかかわった䞀人ずしお、深甚の感謝を䌝えたいずおもう。東京2021幎3月25日
远蚘 和光倧孊初代文孊科長であった近藀忠矩先生が、秋田県立金足蟲業高等孊校の校歌を䜜詞されおいたこずを知ったのは、同校が甲子園で準優勝された2018幎の倏であった。倧䌚終了埌、私は同校にメヌルを送り、䜜詞者に぀いお質問臎し、そのご返事で和光の近藀先生であったこずを確認した。䜜詞䟝頌等の詳现は今では䞍明ずのこずであったが、私はその詞の雄枟さが、近藀先生からいただいおいたお葉曞の筆臎ず極めお近いこずを盎感的に感じ、懐かしさを犁じ埗なかった。
先生はその優しいお人柄で深く敬愛され、先生の日本文孊史の講座は倚分圓時日本文孊を専修したほずんどの孊生が受講しおいたずおもわれる。そしお先生の論文からは、厳しく匷靭な粟神の営みが孊問の進展を支えおおられたこずを垣間芋るこずができた。
先生は戊埌、日本文孊協䌚の䌚長ずしお歎史瀟䌚孊掟を䞻導し、倚くの若き研究者ず孊生を支え続けられた。その先生のお姿が金足蟲業高等孊校の歌詞にたごうこずなく映し出されおいる。どんなに困難であっおも未来ぞ向かっお倧地を拓き続ける若人ぞの氞遠の讃歌を先生は残された。私は今、和光が第四の青春であるずおっしゃった先生のお姿ず重ねお、そうおもう。 本論考の「8. 1967 Clean」においお、秋田県立金足蟲業高等孊校の Home Page からの校歌転茉を蚱諟くだされた同校に、深く感謝申し䞊げる。 東京2021幎4月15日


Beginning

Beginning初めにこのささやかな論考は、1967幎3月に倧孊院仏文孊専攻博士課皋を修了した若き仏文孊者、華埜井銙柄先生が同幎4月に、前幎1966幎4月に東京郜町田垂に開孊した和光倧孊に仏文孊専任講垫ずしお着任し、倧孊草創期の倚忙の日々の䞭で研究ず教授を行ないながら、1976幎4月に37歳の若さで早逝されたその事瞟の䞀端を、あたうる限り圓時の資料に基づきながら再珟したいずおもい、曞きしるすものである。華埜井銙柄はなのい・かずみ先生は、昭和14幎1939幎1月22日、愛知県加茂郡束平村に専光寺䜏職第14䞖若院ずしおお生たれになり、昭和36幎1961幎に名叀屋倧孊を卒業、昭和39幎1964幎に東京教育倧孊倧孊院仏文専攻修士課皋を修了、昭和42幎1967幎に同倧孊院仏文専攻博士課皋を修了し、同幎4月に和光倧月仏文孊専任講垫ずしお着任され、昭和46幎1971幎4月に助教授ずなられた。研究ず教授の進展を嘱望されるなか、昭和51幎1976幎4月26日に胃癌により37歳の若さで早逝された。逝去埌和光倧孊より教授の称号が莈られた。先生が和光倧孊で過ごされた日々からすでに半䞖玀が過ぎようずする珟圚においお、その事瞟の䞀端であっおも、可胜な限り掚枬を避けお確認しようずするこずは、昭和22幎1947幎生のすでに叀垌を過ぎた私にずっおは、決しお容易なこずではなかった。先生ず私は、生幎でわずかに8歳の違いに過ぎない。しかし半䞖玀を過ぎようずする今、先生ぞの远慕のおもいは、私自身の青春の日々ずかさなり深くなっおいる。華埜井先生が私に䞎えおくださったこずの意味は、私自身の過去を振り返るこずによっおのみ、いわば遠近を䌎った䞀枚の絵画のように明確になっおくるような気がする。先生の存圚は、私自身ののフランス語あるいはフランス近代の象城詩ずの出䌚い以降の、たぶん䞀぀の具珟化した頂点のようなものであったのかもしれない。私は昭和42幎1967幎に東京倖囜語倧孊䞭囜語科に入孊し、昭和44幎1969幎に開孊4幎目の䞘の䞊の小さな倧孊、和光倧孊人文孊郚文孊科䞉幎に線入孊した。この䞀぀の倉化が倧きく蚀えば私の生涯に䞎えた圱響は、限りなく深く倧きい。それに぀いおはこの論考の䞭で、自然に述べられるこずになるずおもう。しかしその倉化の予兆は、日本の近代批評を確立した河䞊培倪郎の謂いに埓えば、私にずっおはそれは高校時代の滑空から始たっおいたようにおもわれる。河䞊培倪郎は倚分最初の著䜜ずなる、青山二郎の矎しい版画颚の衚玙の『自然ず玔粋』の䞭で、滑空は長かったが、それは飛び立぀のに十分な準備ずなった、ず述べおおられた。私も、そう蚀い切るこずができたならばず、今はおもう。


Looking Back0.2020 Sworn friends

0.2020Sworn friends2020幎盟友山本吉巊右先生は、和光倧孊開孊の幎1966幎に文孊科日本文孊専任講垫ずしお着任され、華埜井銙柄先生は、開孊の翌幎1967幎に文孊科仏文孊専任講垫ずしお着任された。山本先生は1935幎のお生たれで、華埜井先生は1939幎のお生たれであったから、華埜井先生は 山本先生より4歳幎䞋であった。私が今、こうしおお二人の先生の着任を䞊蚘しおしるしたのは、倧孊の草創期に、お二人がずもに若い専任講垫ずしお文孊科においお特講および講読をお二人で䞀緒におこなっおゆくこずを数幎にわたっお続けおこられたこずに、開孊から半䞖玀を過ぎたいた、深い意矩があったず思うに至ったからである。珟圚確認できる、圓時の文孊科の講矩芁目によるず、お二人が共同しお講矩なさった講座は以䞋のようであった。昭和45幎床特講 石川淳を䞭心ずしお 教科曞 石川淳著『文孊倧抂』昭和46幎床特講 石川淳を䞭心ずしお 教科曞 石川淳著『文孊倧抂』昭和48幎床日文講読 Aヌ 石川淳 「具䜓的なテキストは未定」これらの特講ず講読で䞻題ずした石川淳は、珟代日本文孊の高峰の䞀人であったこずはだれもが認めるこずずおもわれるが、私が特別に泚目したこずは、日本の䞭䞖文孊を専門ずされた山本先生ず、フランスの近代文孊を専門ずされた華埜井先生が、䞀幎間共同しお講座を進めるずきに、どこに共通の基盀を眮き、どこにお二人の専門領域を眮かれたかであった。石川淳の小説においお、日本の叀代から近䞖に至る文化芞術が瞊暪に駆䜿されおいたこずは、代衚䜜のひず぀ずされる『玫苑物語』などでも明瞭であり、その領域に察しお山本先生が独自の芋解を瀺されたこずは想像に難くない。䞀方、石川淳がフランス文孊をみずからの䞭心のひず぀ずしおいたこずも確かであり、その領域に察しおは、華埜井先生の専攻が深く係わっおいたこずも確かであろう。お二人が共通の教科曞ずしお指定された石川淳の著曞『文孊倧抂』の目次を芋るず、以䞋のような題目が目に留たる。日本の文化芞術に関しおは、「俳諧初心」「江戞人の発想法に぀いお」「胜の新䜜に぀いお」「祈犱ず祝詞ず散文」などがあり、䞀方フランス文孊に぀いおは「ノァレリむ」「マラルメ」「バルザック」「スタンダル」「アナトヌル・フランス」の題目が䞊んでいる。この䞭では、「スタンダル」に぀いおは、華埜先生は『人文孊郚玀芁 1966幎 和光倧孊』においお、「スタンダヌルず宗教」の衚題で研究論文を発衚されおいる。二人以䞊で展開する共同講座は、珟圚ではそれほど珍しいものではないずおもわれるが、私が山本先生ず華埜井先生の共同講座においお泚目するのは、若い二先生が倧孊の草創期の文孊科においお蚗したであろう、䜕らかの期埅あるいは垌望が、この特講ず講読に深く反映しおいたからではなかったかず、感ずるからである。文孊ずはなにか、ずいう倧きな䞻題のもずに、これらの講座に蚗した、さらに深く存圚したであろうお二人のそれぞれの䞭心䞻題がなんであったのかが、私の珟圚の倧きな関心ずなっおいる。山本先生は、その埌、平凡瀟の「東掋文庫」叢曞から『説教節』『幞若舞 Ⅰ』『幞若舞 Ⅱ』『幞若舞 Ⅲ』等の䞭䞖文孊における口承文芞の嚆矢ずなる専門曞を盞次いで刊行されおいる。華埜井先生はフランスの民話を線集した線著『悪魔のしっぜ』1972幎を䞉修瀟から刊行された。これらの刊行物を芋るず、お二人の共通の基盀がかすかにながら、瞥芋されるようにおもわれる。それは、埌述するこずにもなるずおもうが、歎史や思想を動かす倧きなダむナミズムでありながら、歎史蚘述ずしおは極めお残りにくい、ほずんど無名の人々の文孊的・芞術的な確固ずした達成を、草創期の倧孊に集った若き孊生たちに䌝えたかったのではなかったずおもうのである。もしかしたらそれは珟圚から振り返るずきの Looking back upon the days、私自身の思い蟌みであるのかもしれないが、「小さな実隓倧孊」を暙抜した和光倧孊に着任されたお二人にずっおは、私が考える以䞊のもっず倧きな垌望ず倢をこの若き倧孊に蚗されおいたかもしれないずおもうこずは、きわめお自然であったのではないだろうか。山本先生は昭和63幎1988 幎に平凡瀟から刊行した『く぀わの音がざざめいお』の「あずがき」の末尟で、次のように曞きしるしおおられる。「いろんな意味で私の仕事を手䌝っお䞋さった和光倧孊の卒業生や圚孊生の方々に感謝申し䞊げたく思う。」あるずき私はWeb䞊で、山本先生に぀いおの远憶を読み、この䞊なくたじめであった山本先生が孊生が聎く音楜を知りたくお䞀緒にレコヌド店に行き、レコヌドたで買っお垰り、翌日は埮劙な顔をなさっおいたかもしれないず想像したずいう卒業生のこずばには、私の蚘憶の䞭にある山本先生のお姿をたざたざず圷圿ずさせるものがあった。先生にずっお、この゚ピ゜ヌドは決しお小さなこずではなく、そうしたこずの䞀぀䞀぀が先生が和光に蚗したひず぀の垌望ではなかったかず、今はしみじみずおもう。華埜井先生の匟さんでいらっしゃる華埜井究氏の今幎2020幎8月のお手玙によるず、先生が倏に垰省されたずきに、究氏に線著『悪魔のしっぜ―フランスの昔話ヌ』に関連した䞀話をお話しされたこずがあったず、私に曞き送っおくださった。その芁玄はほが以䞋のようであった。「芖力怜査で怜査員が村人に文字を埐々倧きくしおゆき、぀いに䞀番倧きな文字を指しお「これなら分かりたすよね」、それでも村人は「分かりたせん」ず蚀う。その村人は文盲だった。」華埜井先生が1972幎にたずめられた『悪魔のしっぜ―フランスの昔話ヌ』CONTES ET LEGENDES DE FRANCE の巻頭の「この本を読たれる諞君に」の䞭で、先生は以䞋のように曞かれおいる。「初玚文法を䞀通り終わった人には比范的簡単に読めお、しかも倢の䞖界に遊ぶような楜しさを味わっおもらえるず思いたす。」山本先生ず華埜井先生が孊生に蚗した垌望あるいは倢が、こうした卒業生のこずばや華埜井究氏のお手玙から、今の私には切々ず䌝わっおくる。お二人はその生涯を、和光倧孊でのみ研究ず教授に専心され、華埜井先生は1976幎に37歳で、山本先生は2007幎に72歳で逝去された。二人の先生は和光倧孊で邂逅した盟友であったず、私は今、半䞖玀前を振り返っおおもう。


Before
1.1963 Theoretical physics

1.1963Theoretical physics1963幎理論物理孊1963幎4月、私は東京郜立川垂にある東京郜立立川高等孊校に入孊した。高校は旧囜鉄立川駅を南口でおり、埒歩10分のずころにあり、1901幎明治34幎、府立二䞭ずしお創立された叀い孊校であった。立川駅は郜心から西玄30㎞にあり、八王子駅ずずもに、倚摩地域の䞭心ずなる駅である。入孊匏圓日は、満開の桜が校門の倖にたで矎しく散っおいたこずを、昚日ののようにおがえおいる。校門の巊偎に、むかし䜿われおいた門衛所があり、䞭倮玄関の手前、向かっお右偎に倧正倩皇来臚時のお手怍えの束があった。校内にはいく぀かの叀い建物が残っおいお、そのいく぀かは私の圚孊䞭もただ実際に䜿われおいた。門衛所は校門の巊偎にあり䞞屋根の叀颚な建物で、門衛さんはもちろん今はいなかったが、倜は定時制課皋もあったので、倕方になるず明かりが灯り、䞭に倜の守衛さんがいるこずがよくあった。サッカヌ郚に入った私も垰るずきは、守衛さんにさよならを蚀った。1孊幎400名で、男子のみであった旧制䞭孊の名残りずおもわれるが、男子300名・女子100名であった。私は䞀幎ず䞉幎は男子クラス、二幎の時のみ男女クラスだった。土足のたたの教宀は、コヌルタヌルの匂いのする黒ずんだ朚補の床の叀い電車のようであった。入孊埌間もない攟課埌、男子のみで教宀ず廊䞋を枅掃したこずがあった。するず事務宀から女性の職員が飛んで来お、皆さんは䜕をしおいるんですかず、驚いたような衚情をみせたので、私たちはそれで、ああこの孊校は掃陀をしなくおもいいんだなず確認し、ほずんどのものが、倚分それ以埌䞀床も掃陀をしなかったのではなかったかずおもう。䞉幎のずきの芪友、金子に至っおは、たったく䞀床も掃陀をしたこずがなかったず、ぞぞぞず笑いながら私に蚀った。䞉幎間で私がもっずも楜しかったのは、倧孊受隓で倧倉であったはずなのに、䞉幎のずきだった。䞉幎になっお初めお䞀緒のクラスになった金子ず二人で、教宀の䞀番埌ろの廊䞋偎に最も近い、出入りでうるさい垭で䞀幎を過ごした。なぜそうなったのか、今は仔现を思い出せないが、もしかしたら、静かな良い垭は自然にうたっお、あたりそういうこずを気にしなかった金子ず私が残りの垭にすわるこずになったのかもしれなかった。しかしそのおかげで、たるで匥次喜倚道䞭のような、自由で楜しい䞀幎ずなった。私たちの埌ろには四角いゎミ箱があっお、前の方にいるものが、特に、䜿った数孊の蚈算甚玙を座垭から空䞭を経お私たちの埌ろのごみ箱に投げるので、かなりの数が箱にはいらず、そのあたり䞀面に散るこずになった。それがひどくなっおも、だれも始末しないので、しかたなく私がゎミ箱に入れお捚おに行った。金子はもちろん䞀床も行かなかった。䞘陵ず林ず畑がただ䞃、八割ほどを占めおいた人口2䞇ほどの東京の西北端に近い小さな町に育った私は、朝、駅たで自転車で行くこずが倚かったが、雚の日は埒歩もあり、林の䞭の道で足裟が濡れるので、長靎を履いおゆくこずがあった。そうするず教宀で、金子に「田䞭、その恰奜だけはやめおくれよな、こっちが恥ずかしくなる」ずよく蚀われた。確かに、校舎の䞭で䞀日䞭どたどたず歩いおいるのは、匷雚のずきでもほずんどいなかった。そんな私だった。金子は数孊が埗意だった。私が難問ずする問題を、圌は確実に解いお私に䌝えた。私がほが察等であったのは、倚分英語だけだった。圌はい぀も、くっ぀けるように右暪の机にいお、「田䞭、千円札持っおるか」ず蚀った。「持っおるわけないよ」ず答えるず、「そうか、俺なら透かしの郚分で解けるんだけどな」ず私をちゃかした。私たちG組ははっきりず限定されおいた蚳ではないが、数Ⅲ、物理・化孊、日本史・䞖界史が授業科目ずなっおいたので、倚くが理数系志望であった。金子は化孊を志望し、私は物理を志望しおいた。理論物理孊だった。私は、䞀幎秋頃から理論物理孊ぞの匷いあこがれを持぀ようになっおいた。私が最もあこがれおいたのは、朝氞振䞀郎先生だった。先生の「垯独日蚘」をい぀読んだのか、今ははっきりず確認できないが、ドむツに滞圚しながら、倚くの著名な物理孊者や俊秀ずずもに新しい理論物理孊の構築を目指しおいた、その姿に魅了されおいた。1965幎秋、朝氞先生のノヌベル物理孊賞受賞が報じられた翌朝、始業前のひずずき、私たちG 組では、その話題が金子ず私の垭に近い埌ろの黒板のあたりでおしゃべりずなった。クラスの䞀人が、おれ、先生ず芪しい人を知っおいるんだ、ず嬉しそうに蚀っおいたこずを今もおがえおいる。はるかに埌幎、私が文字に内圚する時間を䞻題ずしおいたずき、朝氞先生のノヌベル賞受賞の䞀぀の栞ずなった超倚時間理論を敎理する必芁を感じ、西島・ゲルマン理論で知られる西島和圊先生の論考を参考ずしお、シュレディンガヌからディラックを経お朝氞に至る超倚時間理論の数孊ずしおの厳密な道筋を理解できたずきは、高校以来の長い宿題を解き終えたような安堵感をおがえた。西島先生はこの論考を雑誌に発衚したのち、たもなく亡くなられたこずを新聞で知った。先生の絶筆に近いものであったずおもう。私は西島先生の孊恩を感ずる䞀人ずなった。先生のこのずきの論考の衚題は「ディラックず堎の量子論」『数理科孊』2007幎9月号 15頁―20頁 サむ゚ンス瀟 2007幎、であった。そうした私が京郜倧孊理孊郚を匷く志望したのは自然だった。しかしG組の䞭で京郜を志望しおいたのは、倚分私䞀人だった。京郜は私にずっおは厳しい遞択であったが、圚孊䞭倉わるこずはなかった。1966幎3月、私は初めお乗る東海道新幹線で京郜に向かった。その頃折に觊れお少しず぀読んでいた、筑摩曞房版野䞊玠䞀蚳のダンテの『神曲』䞀冊を携えおいた。詊隓の結果、金子は東倧理Ⅱに無事合栌したが、私は京倧理孊郚に䞍合栌だった。京郜倧孊は圓時、高校経由で、詊隓の採点結果を教えおくれおいたので、しばらくしおから送付しおもらった。今おもえば、私の圓時の実力では、もし入っおいたずしおも、理論物理に進むのは苊しかったであろう。こうしお私の高校生掻は終わった。「おたえの所ずたいしお倉わらないけどな」ず誘っおくれた金子の家に、高校卒業埌も幟床か蚪ねた。倚摩䞘陵のふもずの坂道は、倏になるず借竹桃の玅の花が矎しかった。圌は倧孊を終えるず、垌望しおいた化孊系の研究者ずなった。私の方は長い Winding Road を経お、ようやく远及する䞻題ずその方法を芋い出し、「おたえ、ただそんなこずやっおるのか」ず蚀われるだろうが、久しぶりに圌ず再䌚したいずおもったずき、圌はすでに他界しおいた。50代のなかばだった。私はかけがえのない、生涯の友を倱った。
TOMONAGA'S SUPER MULTI-TIME THEORYRESTING ELBPWS NEARLY PRAYER

2.1964 Faith and Freedom

2.1964Faith and Freedom1964幎 信仰ず自由1964幎の冬頃、東京郜立川垂にある東京郜立立川高等孊校に通っおいた私は、囜鉄立川駅南口近くにあった五十嵐曞店で、䞀冊のフランス語孊習曞を買った。朝倉季雄が著した癜氎瀟発行の『朝倉初玚フランス語』であった。二幎の冬䌑みの頃だったずおもう。圓時立川垂には、たしか五぀の曞店があった。商店街ずしおはより叀くからあったず思われる南口に、五十嵐曞店ずオリオン曞房があり、第二次倧戊埌、アメリカ軍の進駐などを契機ずしお発展したずおもわれる北口には、䌊勢䞹、のちには高島屋ずなる立川銀座デパヌト、䞭歊デパヌトの䞉぀の癟貚店があり、立川曞房、マルカク堂、倩銬堂があった。このうち倩銬堂は駅の南北を぀なぐ地䞋通路の入口付近にあった叀曞店であった。五十嵐曞店は高校の通孊路にあったので、必芁があるずきは、高校からの垰りに寄るのに䟿利だった。駅から高校たでは埒歩で10分で、駅近くにあったこの曞店は、高校生の私には十分な質ず量の本が揃っおいた。たずえば入孊埌たもなくこの曞店で初めお知った䞞善発行の『理科幎衚』はその埌ずっず私の座右にあるこずずなった。のち1969幎に和光倧孊に線入孊し、䜐䌯昭垂先生の挔習に参加したずき、先生が『理科幎衚』を曞架に垞備なさっおいお、俳諧に出おくる月の䜍眮ず圢が話題ずなったずき、先生が「理科幎衚を芋れば間違えないのにね」ずおっしゃったこずを今もはっきりずおがえおいる。その幎の秋頃であったずおもう。このこずに぀いおは、のちに䜐䌯先生ずの出䌚いのずころで、もう䞀床觊れたいずおもう。五十嵐曞店でもう䞀぀鮮明におがえおいるのは、入っお巊偎奥の曞架の最䞊段に眮かれおいた、ル・コルビュゞ゚が著し岩波曞店から1957幎に発行された『䌜藍が癜かったずき』の衚題の「䌜藍が癜かった」ずいう郚分が圓時の私にはその意味が぀かめず、奇異に感じられたこずであった。蚳者は、生田勉ず暋口枅であった。生田に぀いおはのちに、詩人立原道造の友人であったこずを知った。1967幎に東京倖囜語倧孊䞭囜語科に入孊した私は、土曜日の陳東海先生の䌚話の授業を終えお友人ず別れたあず䞊野で時折降り、特に囜立西掋矎術通に行くこずがあった。建物は近幎䞖界遺産に登録されお有名になったが、その頃の私はル・コルビュゞ゚の蚭蚈であるこずも知らなかった。1959幎に開通したこの矎術通ぞの入堎者は1967幎圓時、通垞展のみのずきは土曜日であっおも来通者が少なくい぀も静かだった。前庭に眮かれたロダンの圫刻も珟圚ずはその配眮が異なっおいお、有名なカレヌの垂民が䞭倮にあったずおもう。
朝倉季雄の『朝倉初玚フランス語』に戻ろう。高校二幎の私が、この時期になぜこの本を買っおフランス語を孊がうずしたか、その圓初の目的に぀いおは今でははっきりずは憶い出せないが、倚分フランス近代の象城詩を䜕かで知っお、原文で音読しおみたかったのかもしれない。のちに私が河䞊培倪郎や吉田健䞀に惹かれお、ランボヌやノェルレヌヌの蚳詩を䞁寧に読むようになり、原文も蚳ず䞊行しお䜕ずかたどれるようになったが、それは倧孊入孊以降、1967幎以埌のこずであった。
私はこのテキストを文法的に现かく孊んだのではなかった。ただフランス語をできるだけきれいに発音するこずを䞭心にしお、各課の䟋文を䜕床も音読した。幞いにこのテキストにはIPA 囜際音声協䌚の音声衚蚘が䞁寧に䟋文に添えられおいた。あずはアクセントやリ゚ゟンに泚意しながら、繰り返しフランス語の韻埋に習熟するこずが私の課題であった。文法ずしおは、䞻芁な動詞の掻甚衚を繰り返し読むこずぐらいであった。しかしこの簡単な繰り返しが、和光倧孊に線入孊し華埜井先生のフランス語初玚の教宀で私が音読をしたずき、先生に耒めおいただいたこずを友人から教えおもらったこずぞず、繋がっおいったのではなかったか。このこずが先生ず私ずの唯䞀の盎接的な぀ながりずなったこずをおもうず、䞍思議な気持になる。
高校の頃、私はほずんど文孊ずは無瞁であった。すべおを憶い出せるくらいに少なかった。䞭倮公論瀟から赀い衚玙の『䞖界の文孊』が出おいお、私はその䞭のゲヌテの『若きりェルテルの悩み』ずカフカの『城』を読み、特にカフカの『城』には深い感銘を受けた。挿入されおいた点描画颚の挿絵も玠晎らしかった。蚳者は蟻瑆぀じ・ひかるで、この私の論考の䞻題ずなる華埜井銙柄はなのい・かずみ先生が東京恐育倧孊の仏文専攻修士・博士課皋で指導を受けたずおもわれる蟻昶぀じ・ずおる先生の実匟である。日本文孊では、䞭島敊の『光ず颚ず倢』、川端康成の『叀郜』を読んだくらいしか憶い出せない。『叀郜』を読んだのは、京倧にあこがれおいたこずもあったずおもう。サッカヌ郚は通垞は確か月氎金の䞉日が緎習日だったので、それ以倖の日に、高校の二階の叀い図曞宀の窓際に沿った朚補の棚のような長い読曞机が私のお気に入りで、そこから時折校庭を芋枡しながら、読み終えた蚘憶がある。私が図曞宀あるいは図曞通が奜きになった始たりでもあった。
さらに数少なかった文孊曞の単行本賌入の䞭で、忘れられないフランス文孊の小説があった。私はその本を高校二幎の倚分秋に、立川駅北口の駅前の立川通りを巊に数分行ったずころにあった立川曞房で目にしお賌入し、めずらしくほずんど䞀気に読み䞊げた。癜氎瀟から出おいた凜入り赀い背衚玙のルむ・゚モン著、山内矩雄蚳の『癜き凊女地』である。フランス領カナダの開拓地に生きる人々の信仰深き日々を描いたこの小説は、私の䞭で高校入孊以来、䞍即䞍離の状態で継続しおいた、哲孊ず理孊の盞克の䞭に、さらに新しく信仰ず自由ずいう、新たな領域を加えるこずずなった。
高校二幎では「倫理瀟䌚」を孊んだが、その孊幎末詊隓は倫理瀟䌚に係わる自由䜜文のレポヌト提出であった。私はためらうこずなく、このレポヌトの䞻題に『癜き凊女地』の䞭の芋られる信仰に぀いお曞くこずを遞び、私が読曞䞭たた読埌に考えざるを埗なかった、信仰による安息の生掻ず厳しい遞択を垞に匷いられるが自由に生きる生掻ずの二者を、決定論ず自由意志論ずの盞克ずいう、未熟ながら圓時の私ずしおは最も倧切な課題を、可胜な限り分析しようず詊みた。
私の䞭では、信仰は決定論に属し、自由意志論 ずしおは理孊、もっず正確には私の堎合は、理論物理孊による自然探究が眮かれおいた。私のレポヌトの結論は、小説に描かれたカトリック信仰は確かに心打たれるものであり、私にもそうした䞖界は芪しく感じられ、もしかしたらのちに加わっおゆくこずもあるかもしれないが、今は、本圓に自由かず問われればよくわからないが、厳しいけれどその郜床自らの方向を考えながら生きお行く、より倧きな自由を有するず思われる方を遞びたいずいうようにしお、曞き終えたずおもう。
そのようにレポヌトずしお結論を提瀺しおも、信仰の䞭にこそ本圓の自由があるのではないか、ただ自由に生きるずいうだけでは䜕からの自由であり、どこにいるこずが自由であるのか、そしお䜕に向かっおの自由なのかが䞍明ではないかず反問されるず、答えられなかったずおもう。カトリック信仰が私に近づいた初めおの日々であった。
この私自身に向けた真摯な問いは、のちに河䞊培倪郎の批評を読む䞭で、倧きなひろがりをもっお私の心に入っおきた。氏が蚳された、ノェルレヌヌの詩集『叡知』は、氏自身がその「跋」においお、「 今ここにこの䞀巻を出しお䞖に問うには、それだけの理由がなくおはならない。これは今から玄二十幎前、 私の青春の最も決定的な時期に、私が劂䜕なる読曞によっおも救われなかった魂の寂寥をただこの䞀巻によっお医すこずが出来た時の蚘念なのである。」ず述べ、「これは、私の救われた皀有の䜓隓の実録に過ぎないのである。」ず䞇感のおもいで振り返っおいるのに接し、私ははたしおそのような䜓隓をするこずができるのであろうかず、幟床ずなく考えおいた。この跋文は「昭和二䞀幎秋 郷里岩囜にお」ずしるされお終わる。
この蚳詩集の䞭で、私がもっずもよく服膺した詩句は以䞋であった。
「垌望は厩の藁の䞀筋のごずく茝く。」  


3.1967 Drizzling rain

3.1967Drizzling rain1967幎時雚1967幎4月、私は東京倖囜床倧孊䞭囜語科に入孊した。1966幎3月、京倧理孊郚を䞍合栌になっおから䞀幎が経っおいた。理論物理孊を孊びたいずいう倢が消えた蚳ではなかった。実圚する空間ず時間を、数孊を基瀎に眮いた物理孊で解析しおみたいずいうこずが消えた蚳ではなかった。しかし私は、私を他者ず比范したずきの盞察的実力をほが冷静に認めおいた。圓時の私の力では数理科孊を远求できない。䞍合栌ずいう事実を通しお、私はほずんど盎芳的にそのように感じ取っおいた。私は小孊生の頃から英語に芪しんでいた。IPA International Phonetic Association 囜際音声孊協䌚の音声衚蚘にも慣れおいた。䞭孊䞀幎たでで文法も初歩的な仮定法たでを理解しおいた。そのために特別な努力をしたずいうおもいはあたり感じなかった。奜きだから自然におがえおいたずいうふうだった。特別な才胜ずいうようなものではなかった。それに比しお、数孊は最も奜きでありながら、最も時間をかけ努力したずみずからはおもっおはいたが、その結果はむしろ凡庞であった。しかし私は数孊をあきらめたのではなかった。時間をかければ、ゆっくりず考えれば、奜きな数孊から䞀定の成果をあげられるこずも感じおいた。私は迅速に機敏に結果を出すこずができるタむプではなかった。それをみずからに認め、そのこずを知ったうえで、私は自身の孊ぶべき方向を考え、圓初から遞択の䞀぀であった蚀語の方向ぞず舵を切った。以䞋は私の䞭に残る悔いの䞀぀であるが、少なくずも高校䞉幎の時点で、私は机䞊にい぀も䞉冊の蟞兞を垞備しおいた。広蟞苑ず岩波囜語蟞兞そしお角川曞店の挢和䞭蟞兞がそれだった。広蟞苑は1955幎発行の初版、芋出しがただ衚音匏のもので、岩波囜語蟞兞も初版の1963幎4月発行のもの、即ち私は高校ぞ入孊しおたもなくこの小型蟞兞を賌入した。角川の挢和䞭蟞兞は昭和34幎1959幎4月の初版発行で、今はその圓時のものを保持しおいないので版数は䞍明である。この挢和䞭蟞兞の線者は、貝塚茂暹、藀野岩友そしお小野忍であった。私は高校のずきから、こうしお小野先生の孊恩を受けおいたのだったが、そのこずを和光の時代に先生ず幟床もお話しする機䌚があったのに、぀いにお䌝えするこずをしなかった。深い悔いが今も残る。䞭囜語科ぞの入孊は、遠く小野忍先生の圱響があったのかもしれない。私は蟞兞が奜きだった。垃コヌティングの広蟞苑ず岩波囜語蟞兞は、衚玙の折れ目がほどけお、壊れそうになった。広蟞苑はそのたただったが、岩波囜語ず倧孊に入っおから䜿った倉石歊四郎先生の岩波䞭囜語蟞兞は、やがお衚玙が壊れお、その埌しばらくは衚玙を取りはずしお、本文むき出しで䜿っおいた。挢和䞭蟞兞は衚玙がハヌドビニヌルで頑匷であり、かなり匕いたにもかかわらず、衚玙が壊れるこずはなかった。私が蚀語を遞ぶのは䞀぀の必然であった。それが䞭囜語であったのは、小野先生の圱響か、あるいは偶然か今ではもう刀然ずしない。ちなみに、倉石先生の『䞭囜語五十幎』岩波新曞 1972幎発行、の䞭で先生が和光倧孊開孊時に䞭囜語孊科の教授ずしお招聘されおいたが、諞般の事情で䞭絶したこずが述べられおいる。この曞は、先生の䞭囜語に぀いおの遺曞である旚が、「あずがき」にしるされおいる。䞭囜語および䞭囜語孊を孊ぶ若き孊埒にずっお、今も必読の䞀冊であるずおもう。東京倖囜語倧孊に入っお驚いたこずがいく぀もあった。東京の西郊の畑や林ず芪しんで生たれ育った私には、未芋未聞のこずばかりだった。倖語は正門を入るず、緑の芝生が広がり、そこに座りたた談話する孊生たちがい぀も芋られた。通行する人は、芝生を避けおその前を歩いおいた。そしお圌らが小脇に抱えおいたのは、アゞア諞語のやや倧刀で厚い蟞兞であった。たずえば、むンドネシア語、タむ語、ヒンドゥヌ語等々で、みな日本では小型の蟞兞すらないものばかりであった。私はその実態を知りたくお、生協賌買郚の曞籍を芋に行くず、そこにはたさしく皮々さたざたな、アゞア諞語の蟞兞が䞊んでいた。その䞀郚を取り、あずがき等を読んでみるず、アメリカのフォヌド財団等、皮々の財団が垌少な蚀語の倧郚な蟞兞を刊行するために支揎しおいるこずも分かった。私の珟代諞語に関する少量の知芋は、完璧なたでに消え去った。䜙談ずなるが、この生協賌買郚のレゞの暪に䞀枚の倧きなポスタヌが匵られおいたのをおがえおいる。その頃デビュヌしたばかりであった歌手の加藀登玀子さんが、新刊たもないボヌボワヌルの『第二の性』の日本での翻蚳曞を抱えおたたずんでいる姿だった。新しい時代が近づいおいるのかなず、かすかにおもった蚘憶がある。私は䞀幎時に四぀の英語を受講した。そのテキストを列挙する。むギリスの珟代女性䜜家、Iris Murdoch アむリス・マヌドックの代衚䜜の䞀぀である小説 The Sandcastle『砂の城』、次いでShakespeare シェむクスピアの戯曲 The Tragedy of Julius Caesar『ゞュリアス・シヌザヌ』、次いで今はすでに䌑刊ずなっおいるが、アメリカのTime-Life 瀟の倧刀の写真週刊誌『LIFE』、もう䞀぀は英文法だった。この䞭であたり予習をしなくおもよいのは、英文法だけだった。他の3コマは毎回かなり進むので、その予習は倧倉だった。しかもメむンの䞭囜語は月曜から土曜たですべお埋たり、土曜の陳東海先生の䌚話だけが、気の䌑たるたのしい講座で、あずはみな予埩習が必須であった。のちのこずずなるが、私は Murdoch が Oxford で Wittgenstein ず䌚っおいたこずを知った。Wittgenstein はその埌たもなく Oxford を去ったので、Murdoch は圌の講矩を聎いおいない。それだけのこずであるが、1970幎代になっお、雑誌『゚ピステヌメヌ』などの特集を経お、私が Wittgenstein に傟倒するようになるこずをおもうず、倖語は私に予兆ずしおの、すおきな蚈らいをしおくれたず、自分勝手におもうこずがある。FOR WITTGENSTEIN LUDWIGTHE TIME OF WITTGENSTEIN陳先生は叀き良き北京の䌝統を䌝えおくださった、今もな お敬愛の念深き、鷹揚で倧人の颚栌がある玠晎らしい先生でいらした。たた岩波䞭囜語蟞兞の顧問栌でもあった。東京教育倧孊の䞭囜語孊の牛島埳治先生が䞭囜語孊遍歎を綎った曞の䞭で、陳先生から䞭囜語䜜文の指導を受けたこずが述べられおいる。すでに深い孊識を持っおおられた牛島先生が、ある皋床の自信をもっお陳先生にお芋せした䜜文を、陳先生は完膚なきたでに添削した。萜胆した牛島先生に察しお、陳先生が䞭囜語の衚珟は難しいからず、慰めおくださったず曞かれおいた。それでも牛島先生はその曞の末尟で、もう䞀床生涯を送るずしおも私は䞭囜語を孊ぶであろうずしるしおおられた。䞭囜語䜜文の授業は、土曜を陀く毎日あり、毎回䜜文の詊隓があり、その堎で返华しおくださる。毎月曜にはさらに暗蚘のテストがあり、それは圓時流行した『毛沢東語録』の数ペヌゞを暗蚘しおきお、先生が䞭囜語で二床読み、その党文をその堎で筆蚘しお提出し、これも授業終了時たでに返华された。䞭囜語科は党郚で40名、私のクラスはその半分の20名で女子は3名であった。この䞭の䞀人ず私は、のちにたったく偶然に東掋文庫で再䌚した。和光で専攻科を経お研究生ずなった1980幎であった。圌女は倧孊院を出お、東掋文庫の特別研究員になっおいた。お互いにすぐ顔がわかっお、圌女は私に、いく぀もの挫折があったけれど、子䟛を産んで勇気をもらった、ず話しおくれた。二人ずももう䞉十代ずなり、十数幎が経っおいた。埌幎、圌女は䞭囜語ず英語を駆䜿しお、䞭囜近代の倖亀政策を研究した倧曞を二冊刊行し、博士号を埗お、囜立倧孊教授を勀め、近幎退官した。圌女は私が倖語二幎のずき、原因䞍明の高血圧で入院したずき励たしのはがきを送っおくれた。東掋文庫ではそのお瀌も述べずに別れたが、倖語の教宀の窓際の前列でしずかに孊んでいた圌女の姿が懐かしかった。私は倖語入孊前に、今では懐かしい゜ノシヌトを䜿っお、発音の緎習をしおいた。4月の授業で、䞀、二、䞉等の数詞の音読があったずき、指名されお音読した私の発音に察しお、先生が、君は発音をどこで孊んだのかず質問された。私は゜ノシヌトで孊びたしたず䌝えたが、小孊生以来、倖囜語発音のための口腔図、舌の高䜎差、唇歯の摩擊音・砎擊音等の発音構造は熟知しおいたので、私ずしおは耒められるのは意倖だったが、それはやはり嬉しいこずだった。埌幎, 東京西郚の旧五日垂町で数幎間䞭囜語講座を開いたが、䞀床皆を神田の叀曞店街を案内し、垰りに皇居呚蟺を巡ったずき、二重橋の近くで、䞭囜の倧孊名を蚘した方ず偶然話す機䌚があり、日本語も理解されたので䞭日䞡語で簡単に皇居の歎史などを䌝えるず、その方は、君の日本語は䞊手だね、ずほめおくださった。ああ、この方は私を䞭囜出身の人ずおもわれたのかず、このずきも単玔に嬉しかった。私の講座の人たちも、「䞭囜の人ずおもったのね」ず蚀っおたのしそうに笑った。䞭囜語孊習に぀いおは際限ないが、倖語の私たちは倚分みな、日垞芋聞きするすべおの挢字の䞭囜語音をおがえるこずに必死であったずおもう。特に日本の地名は難物であった。次から次ぞず䞭囜語音が未知の挢字が出おくる。それを垞に蟞兞で確認する。私の堎合は、倧孊曞林発行の鐘ヶ江信光先生の『䞭囜語蟞兞』、倉石先生の『岩波䞭囜語蟞兞』そしお倧修通発行の『新字源』の䞉冊をい぀もカバンに入れおいた。電車から芋える看板もその察象の䞀぀であった。私はしかし、䞀幎の埌半になるず、すでに二幎時での予定を考え始めた。英語を䞀幎で4コマ取ったのもそのためだった。生協の曞籍郚で、二幎時で䜿う予定のサンスクリットのテキストがあったので、それは賌入した。ラテン語・ギリシャ語はテキストがわからなかったので、岩波党曞から、呉茂䞀先生の『ラテン語入門』ず、ギリシャ語の入門曞は圓時少なかったので、神田盟倫先生の『新玄聖曞ギリシャ語入門』を賌入し、時折、䞡曞の蚀語の語尟倉化等を音読しおいた。神田先生の著䜜は、埌幎党集を賌入し、『新玄聖曞文献孊』等のキリスト教孊を䞭心ずした孊問の深奥を、かすかに知るこずができた。しかし私の䞭で、少しず぀転機が蚪れおいた。それが決定的ずなったのは、倖語䞀幎の秋、郜心ぞ向かうバスの䞭で私にふず浮かんだ芭蕉の発句に起因しおいた。時雚が車窓を青緑色に流れおいた。今では、そこたでは现かく思い出せないそのずきのおもいを曞き綎った1999幎の文を党文以䞋に再掲する。私はその埌なお䞀幎半の1969幎3月たで倖語に圚籍するが、教逊課皋の修了時に転孊するこずは、もはや私の䞭で決定しおいた。こうしお私は幞いに1969幎4月に、和光倧孊人文孊郚文孊科䞉幎に線入孊でき、䜐䌯昭垂先生のれミで芭蕉を孊ぶこずずなり、あわせお「正岡子芏」の特講を受講するこずずなった。以䞋はその1967幎秋のおもいをのちの1999幎に曞き蚘した私的な物語の䞀郚である。20幎埌ずなった今では、もうここたで詳しくは憶い出せない。


「 時雚 倖は冷たい雚が降っおいたす。この雚できっず枝に残った葉もきっずあらかた散っお行くでしょう。もうすぐ冬が来たす。ラフォルグが倩䜿の優しさで降る雚ず蚀った、そんな雚です。田所さんは俳諧䞃郚集『猿蓑』巻頭の句、初時雚猿も小蓑をほしげなり、を思い出しおいたした。田所さんはこの句に特別な思い出があるのでした。
 もう遠くなった日々、䞭囜語を孊び始めたころ、田所さんは自らのアむデンティティの揺らぎの䞭にいたした。発端は簡単なこずでした。䞭囜語を孊んでいる自分はいったいどこにいるのかずいうこずでした。蟛亥革呜から五四運動を経お、統䞀抗日戊線成立ぞ向う䞭囜の近代が、それたで歎史にたったく疎かった田所青幎の胞に重く迫っお来おいたのです。高校の教科曞でひずずおりの知識は持っおいたした。しかしそれず違っおこずばを通しおいわばより盎接的に入っおくる䞭囜の近代は、実圚の人が話しかけるように身䜓に響いおくるものがありたした。そのずき若かった田所さんは、歎史に向かいあう自分がたったく空癜であるこずを感じおいたした。
 空癜な自分が、ひず぀の倖囜語ずいえども、果しおほんずうに孊ぶこずができるのだろうか、そういう問いが田所さんにい぀も答えを求めおいたのです。そんなに深刻に考えなくおも、ずいうのは䜕がしかの基盀をすでに自己のうち持぀、空癜でない人だから蚀えるのです。䜕も持たないたたに立぀ずいうこずは぀らいこずでした。哲孊は茫然ず立ち尜くす圢をずるず蚀ったのは、ノィトゲンシタむンであったでしょうか。そのずきはただそんなこずばも知りたせんでしたが、事実は立ち尜くす以倖に䜕もできなかったのです。田所さんは初めお䞖界ず向かい合ったずき、自らのうちにあっお自らを支えおくれるものがなにもないこずをこのずきはっきりず知ったのでした。その解決のためには、明らかに、それたで孊んできた知識ずは違った皮類のものを必芁ずしたした。倖界に向ったずきに、そのこずの䞊に立っお自分が考えるこずができる、そのための確実な基盀が求められおいるのでした。それはたぶん自らが生きおゆく䞭で、生掻の無数の断片を぀なぎ合わせるようにしながら、時間をかけお少しず぀出来あがっおいくものであったのかもしれたせん。しかし、そのずき田所青幎はその生成をゆっくりずは埅っおいられなかったのです。自分が空癜のたたで歎史に向かい合い続けるこずは、比范を蚱さない苊しいものであったのです。
 䞭囜語を孊んで初めおの冬を迎えようずしおいたした。田所青幎はその日バスに乗っお郜心に出かけお行く途䞭でした。時雚がバスの窓を青緑色に濡らしお流れ萜ちおいたした。乗客は少なく、車内は静たり返っおいたした。青幎は窓の倖を芋やりながら、この半幎あたり考え続けおきたこずに、ほずんどなにひず぀進展がなかったこずに気づいおいたした。このたた進むのは぀らい状況でした。
 そのずきふず、芭蕉の『猿蓑』の句が思い浮かんだのです。どうしおそうなったのかはわかりたせん。窓倖の時雚が、どこからか蚘憶を呌び起こしおくれたのかもしれたせん。青幎はこのずき即座に、この堎所に戻ろう、ここからなら確実な䞀床を歩き始めおみるこずができるかもしれないず思ったのです。『猿蓑』の句はほかに䜕䞀぀おがえおいるものはありたせんでした。ただこの䞀句をどこかでおがえただけなのでした。新しい出発にずっおは、それで十分なものでした。 青幎にずっお、䞖界は時雚ず同じでした。青幎もたた小さな蓑をどうしおも必芁ずしおいたのです。傷を負いやすいたたしいは、どうしおも防埡されねばならなかったのです。文孊はひず぀の防埡です。
 青幎はそれからしばらくの間、『去来抄』を読んで過ごしたした。それは党䜓でも短く、䞀぀䞀぀の文はさらにきわめお簡朔でした。それが疲れおいた青幎にはふさわしかったのかもしれたせん。䞋京や雪぀む䞊の倜の雚、去来抄でおがえたこの句は、のちに奈良京郜をたずねたずきに、幟床か思い出すものでした。結局青幎は、自らが付ける小さな蓑ずしお、京郜のにおいやかな矎しさを離れお、ひっそりずした奈良を遞ぶようになっおゆきたした。その出発点はこうした去来抄などからもたらされおいたのかもしれたせん。
 倜の雚かげろう窓に震えおり
その翌々幎の倏、もう萜ち着きを取り戻した田所青幎が、自分の郚屋から芋たたたによんだこの初倏の倜の颚景にも、きっず去来抄の䞋京の句がその深いどこかで぀ながっおいたかも知れたせん。」Papa Wonderful 49. Drizzling rain, 1999 DRIZZLING RAIN

4.1967 Not so great

4.1967Not so great1967幎偉倧ではない
昭和42幎1967幎4月、私は倖語の䞭囜語科に入孊した。家は確かに東京であったが、すぐ西は埌玉に接した䞘陵ず林ず畑の小さな町から、郜心の北郚に通うようになっお、私の生掻は倧きく倉わった。土曜日は陳東海先生の䞭囜語䌚話の授業があり、私は先生のどこか枅代の䜙韻を残すお人柄が奜きで、毎週決しお䌑むこずはなかった。午埌は新宿で䞋車しお、しばしば玀䌊囜屋曞店に寄った。逆に䞊野に向かい、囜立西掋矎術通に入るこずもあったし、ずきには神田に出お叀曞店街を回るこずもあった。
氎道橋の改札を出お、巊に売店があり、右に曲がり橋の欄干から神田川の氎面を芋るのが奜きになった。駅舎の方角に、ボクシングゞムの看板があり、南北に通ずる癜山通りの東偎には郜立工芞高校の校舎の窓がい぀も光っおいた。氎面をゆっくりず進む、あの平たい船はなんずいう名前なのか知らなかったが、私はそこに懐かしい東京の景色を感じた。私はい぀か、たぎれもなく東京の䞀郚になっおいた。私はこずに倕暮れの神田が奜きだった。䞀日䞭神田を歩きたわり、幟冊かの収穫を埗お疲れお垰るずき、救䞖軍が歳末の瀟䌚鍋を眮き、音楜が奏でられおいおも、私は圓時たったく献金しなかった。埌幎、新宿駅西口で、同じ光景に出䌚ったずき、このずきは家内ず䞀緒だったので、初めおなんだよず蚀っお献金し、救䞖軍のパンフレットをいただいた。癜山通りの䞀぀裏偎に䞊行しお通ずる道路に面しお、神田カトリック教䌚があった。私はその静かなたたずたいが奜きで、ずきおり道路から倕暮れになるず灯る教䌚入口の明かりを眺めたが、珟圚に至るたで遂に䞀床も教䌚に入ったこずはなかった。埌幎私は神田の倕暮れを远憶をこめお、小さな物語の䞭に綎った。そう、1960幎代末には、癜山通りを茶耐色の郜電がゆっくりず走っおいた。あの巣鎚の終点からたっすぐに南䞋するず神田に぀く。半䞖玀は遠い。私はそれらの懐かしい颚景を、のちに『冬ぞ』ずいう私的な物語に綎った。

「 背の高い建物矀が青緑色に芋える。郜垂線の高架の䞋を南北に広い道路が走り、そこをゆっくりず路面電車が進んで行く。駅を降りお歩道をすこし南に行くず、の䜏たいに着く。䞀階はブリキ屋で倖付けの階段を䞊った二階に䜏んでいる。物眮のように䜿われおい たずころを䜏たいにかえただけの殺颚景な郚屋だが、窓が道路に面した東ず、駅の方の北に取っおあっお明るい。圌が初めおこの駅で降りたずき、曇り空の䞋にくすんだ高い建物が背景ずなった颚景になんずなく惹かれお、歩き始めおすぐに目に぀いた貞家の匵り玙のたたに、「トタン・ブリキ補造」ず看板があるガラス戞を開けお、その堎で郚屋を借りるこずにした。駅からここたで来る途䞭の路面電車の䞭継基地ずでも蚀うのか、そこから道路に向かっお電車が出お行く光景が今も初めお芋たずき のように奜きだ。線路は赀く錆びおいお、車茪の圓たるずころだけが、銀色に光っおいる。電車はい぀も道路に向かっおカヌブしおい くずきにギシギシずきしんだ音を立おた。」『冬ぞ』第Ⅰ章、To Winter 1, 2015「 岡朔が蚀っおいたように、決定的なものはながい䜙韻を残す。は無性に町なかを歩いおみたくなった。か぀お歩いたずころを、い ぀もさたよっおばかりいたずころを、もう䞀床ゆっくりず歩いおみたくなった。  叀本屋街のある駅ぞ郜垂線で向かった。叀がけたホヌムから階段を䞋りる。䜎い梁がながい間の埃にすすけ、階段は黒く瞁が磚り枛っおいる。補図孊校や簿蚘孊校の掻字の倚い広告が倉わるこずなく貌られおいお、ああたたここに来たず圌はおもう。改札を出るず倕ぐれの町が若者たちの姿をなかばシル゚ットにしお、行き来させる。巊偎に売店がある。その前方のガヌド䞋に幹線道路が走り、道路を路面電車がきしみながら過ぎお行く。右ぞ行けば叀本屋街。䞭倮のガヌドの䞋に、぀たり郜垂線の䞋に、運河がな がれおいる。駅名ず同じ叀がけた橋が架かり、よどんだ氎面をずきおり平たい荷舟が通っお行く。むかしずなにも倉わらない。 橋の向こうは倧きな亀差点で、その向こうに灰色の高い孊校がある。倕ぐれの䞭に点々ず、ただ孊んでいるのか灯りがずもっおいる 。 これもむかしのたただ。橋に立っお川面をながめおいるず、人々が絶え間なくながれお行く。橋はそういうずころだ。ずどたるずころではない。はそこから運河をながめおいるのが奜きだった。荷舟はどこたで行くのだろう。いずれ海蟺近い枯か集積堎で荷を降ろす のだろうか。荷舟は時のながれを二重にするかのように、よどんだ運河の䞊をゆっくりず䞋方ぞず移動しお行く。 運河の巊手は駅舎で、右手は建物矀の裏偎になる。いく぀もの看板が駅の方に向いおいる。東掋王者が構える姿を描いたボクシン グ・ゞムのややゆがんだゎシックの看板はただ健圚だ。橋はもうずころどころコンクリヌトが剥げ萜ちおいる。叀がけた町にふさわしい。錆びた鉄の欄干にもたれおいるず、今日は倚いの かもしれない荷舟がたた橋をくぐっお行く。  もはや本屋街をさたようこずはない。察象は私のうちにある。私はただこの運河をながめおいればいい。遍歎は終わった。たぶん氞遠にマむスタヌにはなれないだろうが、みずからの小さな仕事堎で、日が萜ちるたで䜜業をすればいい。するず仕事堎の窓蟺を聖者が通っお行く。か぀おそんなロシアの民話を読んだ。  秋の日ぐれは早い。路面電車のヘッドランプがたぶしいくらいだ。黄耐色の窓に少ない乗客が照らし出され、叀本屋街の方ぞ消えお 行った。駅の売店がにぎやかな橙の光に包たれおいる。」『冬ぞ』第8章、To Winter 8, 2015


そうした東京ぞのおもいず重なるような、私の深奥ず響き合うようなたったくおもいがけない出䌚いが、倖語で私を埅っおいた。詩人でフランス文孊者であった安東次男先生ずの出䌚いだった。䞀幎次の䞀般教育科目の人文科孊分野で、私は迷うこずなく「文孊」を遞んだ。安東次男先生のお名前はたったく知らなかった。しかし、その講矩を聎き始めおすぐに、たぎれもなくここに私が求める文孊がある、ずおもうようになった。講矩はたもなくしお、倧教宀から䞭教宀ぞず移った。先生の講矩はノヌトに取るようなものではなかった。したがっお今もその講矩の倧きな流れを自分の䞭で再珟するこずはできない。しかし、講矩の断面が、たるで詩句の䞀片のように、今も蚘憶に刻たれおいる。今の日本の文孊で、批評においお芋るものは少ない、先生ははっきりずそう述べられたあず、「ただ吉田健䞀の『文孊の楜しみ』河出曞房 1967幎 、がある。これは読むべき数少ない本だ」ず述べられた。私はここで初めお、吉田健䞀ずいうたったく未知の文孊者の名を知った。そこから吉田健䞀のむギリスからの垰囜埌の垫ずなる、河䞊培倪郎ぞはたっすぐに延びおいく。1967幎倏、倧孊が倏䌑みになるず、私は神田に行き叀曞店街を回り、吉田健䞀の本を探した。するずいく぀かの叀曞店で、垂氎曞房版の吉田健䞀著䜜集が店頭でゟッキ本に近い圢で売られおいるこずを知った。この著䜜集は倧倉䞁寧に䜜られおいお、麻のような垃で芆った固い衚玙で倩金が抌され、玙質はやや薄く掻字のきれいな装䞁であった。倀段は䞀埋で、確か䞀冊280円だったずおもう。吉田健䞀の存圚は、ただ神田で、あるいは文孊垂堎で充分な認知がなされおいないこずは明癜であった。私は著䜜集の異なる冊はすべお賌入した。新曞版の『乞食王子』の本もゟッキ本で売られおいたのであわせお賌入した。その裏衚玙の折り返し郚分には、吉田健䞀がコンロを前にしおドテラ姿でいる写真が茉せられおいた。私は文孊の本質ずはなにかず、幟床も自分に問いかけながら、そのなめらかで独特な文䜓に心惹かれながら読み続けた。ここでふたたび倖語の、倏䌑み前の初倏のたぶしいような日差しの䞀日に戻りたいずおもう。倖語の正門を入った芝生の広堎の前で、私は安東先生の姿に接し、おもわず近づいお先生が講矩の䞭で玹介しおくださった先生ご自身の著曞『珟代詩の展開 増補版』思朮瀟 1967幎、を賌入し読んでいるこずをお䌝えした。先生は芋知らぬ新入生の突然のこずばに別段驚くこずもなく、少しだけ盞奜を厩しお、「あれは良い本でしょう」ずたのしそうに私に応じおくださった。私はそのずきすでに先生の詩集も読んでいたずおもうが、そのこずにはこのずき觊れなかった。『六月の緑の倜は』『CALENDRIER』『ひずそれを呌んで反歌ずいう』。私は生たれお初めお詩人ず話すこずができた、そうおもった。『珟代詩の展開 増補版』によっお、私は私が求める文孊がどこにあるかを少しだけ理解するこずができた。それは吉田健䞀、河䞊培倪郎に至るこずによっお決定的なものずなった。安東先生は、たさしく私の文孊の垫であった。『珟代詩の展開 増補版』は1967幎4月15日発行であり、私は倖語に入るず同時に、この幎に文孊にも導かれたこずになる。圓時私が繰り返しお読んだ郚分は、『増補版』においお挿入された、「詩時評」1965・2ヌ1967・3 読売新聞であった。376頁から431頁に及ぶ、時評ずしおは長線ずなっおいた。そこには私の青春を錓舞するような文章が、たさしく散文の詩句ずなっおきらめいおいた。


「詩は所詮同心の者のあいだに成り立぀心の亀流であるなら、䜜品の数を必芁ずするたい。」「ランボヌのほんやくなど私には興味がない。」「自分が必芁なずきのみ、詩を䜜るのだ。」安東先生は蔵原䌞二郎の詩集『岩魚』から䞀節を匕甚する。「颚は村の方角から吹いおいる 狐は䞀本のほそい あるかないかの圱になっお 村の方に走った かくお 狐はたた䞀矜癜い鶏を襲った」「そもそも日本の戊埌詩には䜕らこれずきたった圢匏の玄束などないではないか、」「だから䜕をやっおもいい、ただ自分の䜜品に最もふさわしい圢匏をたず発芋するこずだ。珟代詩など、私にずっおどこにも始たっおはいないのだ。」「行分けの詩は、こず日本に関する限り、金子、西脇あたりの䞖代でその必然性を倱った、ず芋るのが私の芋方である。若い珟代詩は、そのこずをよく考えお、たずおのれの圢匏を芋いだすこずに冒険をかけたらよい。」先生の次のようなこずばが、ほずんど無意識のうちに、私の生きる方向を決定づけおいたず、今になるず、ずたどうこずなく確蚀できる。「われわれは、のこされた文化の高さず䞊びうるずころたでは、䜕を措いおも孊問にうちこむ必芁がある。それをおこたる口実に、愚にも぀かぬ詩や小説の䞀぀や二぀曞かぬこずだ。」「どんなにたどたどしい語孊力でもよいからずいえば語匊がある。むしろいうならばたった䞀行の詩句を読むために䞀぀の語孊を習埗しお詩は原語で読め、」「詩時評」は以䞋の文章をもっお終わる。「朚䞋倕爟が、戊争もなくたたかれの呜ずりずなった病気もなく、終生ひばりのように明るく歌い぀づけたずいうこずは、たぶんあやたりである。かれのような資質の詩人が戊䞭戊埌を生き抜くためには、俳句ずいう極埮な詩型が必芁ずなったこずを、そのこずのよしあしは今は問わぬずしおも、私ははっきりさせおおく必芁があるず思う。」


安東先生の俳句の垫は、加藀楞邚先生であった。埌幎、倧岡信、䞞谷才䞀ずずもに、歌仙を巻いおおられた。新朮瀟の雑誌『波』に茉った先生の竹林の発句が玠晎らしかった。今正確におもい出せないのが惜しい。これらの日々が私における文孊ずの決定的な出䌚いであった。私の文孊的生き方を決定したずいっおもいい。私は先生のこずばをなぞるようにしお生きおきたずいっおも、それほど違わない。詩は未来を瀺す。それが詩人の定矩であった。私は先生を芋おそうおもう。か぀お私は、詩人ず近代に぀いお曞いたこずがある。
PAPA WONDERFUL 19 MODERN TIMES
私は昭和43幎1968幎の倖語䞀幎の終わり近くにの早春に、先生のご自宅を蚪問した。なんの連絡もしないたたであったが、先生はあたたかく迎えおくださった。ほんずうはきっず迷惑であったずおもうが、しょうがない若者だずおもっおいらっしゃったのかもしれない。先生は庭先で、なにか玙を也かす仕草をなさっおいた。先生は、ほほえみながら、「駒井哲郎君ずの詩画集に石油を぀けちゃったんで、也かしおいるんだ」ずおっしゃった。詩集『ひずそれを呌んで反歌ずいう』゚スパヌス画廊 1966幎、だっただろうか。私はこのずき初めお、この高名な銅版画䜜家であった駒井哲郎の版画を芋た。先生は私を囲炉裏のある和宀に招じ入れおくださり、そこでにこやかに話しおくださった。しかし話された内容は、いずれも厳しいものであった。先生の生きる姿勢を私は目の圓たりにした。先生は「詩時評」ずたったく同じに生きおおられた。
私は先生の詩集『CALENDRIER』ナリむカ瀟・昭和35幎1960幎、を圓時から繰り返し読み、その䞀郚は今もそらんじおいる。私の最も奜きな詩は、䞀幎の暊ずなったこの詩集の八月 Aout の詩である「碑銘」であった。その党文をここに匕甚する。「   碑銘 建おられたこんな塔ほど   死者たちは偉倧ではない   がくは死にたくなんぞないから がくにはそれがわかる  ずころでなぜがくは  こんなずころに汗を垂らしおう぀むいお  いるのだ䞀篇の詩がのこしたいためか  䌌たりよ぀たりの連䞭のなかで  生たれも぀かぬ片茪の子を生んで俺の  子ではないずなすり぀け   あいためかがくにはそれがわかる  建おられたこんな塔ほど  死者たちは偉倧ではない 」



5.1966 Small university on the hill

5.1966Small university on the hill1966幎䞘の䞊の倧孊私は1969幎、開孊から4幎目に線入孊詊隓受隓の資栌確認のために和光坂を䞊ったのが初めおのため、1966幎開孊圓初の和光倧孊を知らない。初めお蚪れた、1969幎の倚分2月も緊匵しおいたのか、倧孊たでの道筋の颚景をたったくおがえおいない。線入孊埌の初倏、和光坂を䞋りおくるず、巊手に现長く䌞びる若い緑の氎田が光り、ツバメがその䞊空を飛び亀い、ずきに皲光が走る、あの颚景が忘れられない。䞘の麓に残された谷戞の颚景だった。和光倧孊が所圚する䞘は倚摩䞘陵の䞀支脈であろうが、その地理的状況に぀いおは、和光倧孊経枈孊郚の村朚定雄先生がご専門である地理孊の芋地から、昭和56幎1981幎に和光倧孊経枈孊郚より刊行された『マルサス・リカヌドずその時代』癜桃曞房においお「和光倧孊創立十五呚幎を迎えおの随想」ず題する論考ずしお詳现に蚘述しおおられる。私は孊郚が異なったこずもあり、先生の講座は受講するこずを逞しおしたったこずが悔やたれる。
先生は長身でいらしたので遠くからでも先生ずすぐに確認でき、私が研究生ずなっおいた1980幎代のある日の倕刻、ご指導を受けおいた川厎庞之先生ずご䞀緒しお、通孊バスから降りお鶎川駅ぞ向かう途䞭、先方に村朚先生がおられるのを知ったずき、川厎先生はほほえみながら、「村朚先生はご自身のペヌスがあるので、お声をかけないこずにしおいるんだ」ずおっしゃったこずが忘れられない。村朚先生の朎蚥ずした颚貌がな぀かしい。村朚先生のご論考から、䞀郚を抜粋しお以䞋に蚘す。



「倚摩䞘陵の南東郚の䞀角、町田垂金井ず川厎垂倚摩区岡䞊にたたがる谷戞やずに、䞘陵の斜面を人工的に平坊化しお、そこに倧孊の校舎䞊びに運動堎が建蚭されたのである。谷戞たたは谷やずずいうのは、浞食された狭長な支谷をさす倚摩䞘陵の呌称で、䞭略倧孊呚蟺の䞘陵は暙高90前埌のようである。」
「創立圓時は、この道路ず線路ずの間の狭長な地域は、殆ど党郚が䞀毛䜜氎田の谷戞田であった。この氎田を耕䜜しおいた蟲家に聎くず、ここの氎田は反圓収量8俵のよい田で、倏の気枩ず氎枩が高いので、時には毒蛇の蝮たむしも芋かけた。䞭略この氎田の䞀郚に蒲がたが自生しお、通孊の目を楜したせるこずもあった。」
「道路の東偎は、道路䞋に沿う小さな枓流を隔おお、比范的急な䞘陵の斜面ずなり、創立圓時のその斜面は、殆ど党郚が倚摩䞘陵に共通の広葉暹を䞻ずする雑朚林か草地であった。」
「初春の候には、倧孊の研究宀棟の南東にある䞘陵の森から、鶯の鳎く声が聞こえたものであった。」
『マルサス・リカヌドずその時代』287頁―288頁


私は和光ぞの受隓資栌確認のために事前に電話をしたずおもうのだが、そのこずも今では詳现を完党に倱念しおいる。ただ確認に蚪れた圓日、察応しおくださった山厎昌甫やたざきしょうほ先生ずの出䌚いは、深い印象をもっお忘れるこずができない。1968幎に私は東京倖囜語倧孊䞭囜語科二幎に圚籍しおいたが、1968幎から1969幎春にかけおは、いわゆる倧孊玛争によっお倚くの倧孊が䞍正芏な状態に眮かれおいた。倖語は倧孊が孊生によっお封鎖され、正門は閉じられおいた。私はその脇を通っお線入孊手続きのために孊内に入った。キャンパスは森閑ずしおいた。校舎の前の芝生で、私は䞀人の友人ず出䌚った。「田䞭、倧䞈倫か」ず心配しおくれお、「䞭に入っおみるか」ず、誘っおくれた。向かっお右ぞ歩いたので、アゞアアフリカ蚀語研究所であったずおもう。䜎階の䞀研究宀の内郚を芋せおくれた。がらんずした宀内の壁面に曞棚だけが目に぀いた。孊生はだれもいなかった。そのずき圌はふいに「おれ今結栞なんだ。パスを飲んでいる」ず私に䌝えた。圌ずはその埌、䞀床も䌚うこずはなかった。無事回埩しお、私ず同じように元気になったこずを垌がっおいる。この日、倧孊事務宀も閉鎖されおいお、私は必芁な曞類等を申請できなかったずおもう。成瞟蚌明曞や圚籍蚌明曞等をその埌どのように入手したのか今はたったくおがえおいない。ただすべおの曞類が敎った埌、䞭囜語科の䞻任の長谷川寛先生のご自宅をお尋ねしお、最終的に私の和光ぞの受隓がおこなえるこずずなった。先生は静かに私の今埌の進路倉曎の垌望を聎いおくださったあず、ペンを手に取られ、「小野先生ぞの玹介状を曞いおおこうか」ず、私がたったく予期するこずもなかった配慮をしおくださった。先生の名刺の裏に、私のこずを蚘しお、先生のお名前の䞋に捺印をするずき、「この印はね、毛沢東の印を圫った人が圫っおくれたんだよ」、ず楜しそうに話しながら抌印しおくださった。先生が癜氎瀟から1974幎に䞊梓された『暙準䞭囜語䌚話』は珟圚も版を継ぎ、名著ずされおいる。私も長幎愛甚しおいる。私はクラスが違ったため、先生の䜜文の授業を受けるこずはなかった。先生は心から䞭囜語を愛し、䜜文がもっずも奜きだず話されおいた。毎日の䜜文の結果に぀いお、君は最近打率が䞋がったねず、たのしそうにクラスの人に䌝えるこずがあったずいう。2幎埌、私が和光を卒業するこずが間近ずなったある日、私は八王子のくたざわ曞店に寄ったずき、ふず目にした䞀冊で、先生がすでに亡くなられおいたこずを知った。倖語退官埌、䞭囜語専攻を持぀倧孊で、新たな教鞭をずられおいた。私は先生に、和光を無事卒業臎したすずのご報告をお䌝えするこずができなかった。すべおの䞭囜語科の孊生から敬愛されおいた先生の逞話は以䞋に尜きるずおもわれる。孊生集䌚で先生方が窮地に立たされる䞭で、先生はひずり、「孊生の話す口調を即座に䞭囜語に蚳すのは難しいもんだね」ず、脳裏で䞭囜語䜜文に取り組たれおいたずいう逞話であった。思想や考え方の違いを超えお、䞭囜語科のみながこの逞話に笑みを送った、いかにも先生らしいず。先生はそうした方でいらした。私は倖語二幎時に、原因䞍明の高血圧ず蛋癜尿によっお、入退院ず怜査そしお関連した小さな手術を回行っおおり、1969幎12月にはほがか月間、粟密怜査のために、䞖田谷にある囜立倧蔵病院に入院するこずになった。それたで入院ず通院を行っおいた病院で䞻治医の先生が、あなたも症状がなんに䟝るか䞍明では䞍安でしょう、もし粟密怜査を受けおみたいなら、玹介状を曞くから受蚺しおみたすか、ず私の今埌を案じおくださり、先生が旧知の慶応倧孊病院の先生を玹介しおくださった。䞻治医でいらした先生のこの凊眮に、私は今も深く感謝しおいる。こうしお私は初めお慶応倧孊病院を受蚺し、玹介しおくださった先生にお䌚いした。圓日の蚺察では现かな病状を確認するこずはできないずのご刀断で、先生はわざわざ䌑日に、静たり返った倧孊の医孊郚研究宀で県底撮圱等のより现かな怜査を行っおくださった。研究宀の流しのブリキが錆びおいたのが蚘憶に残っおいる。その日の結果を芋お先生は、「粟密な刀断のためには、入院しおさらに怜査を受けた方がよいずおもう」ず、䌝えおくださった。私はすぐに「お願い臎したす」ずお答えしたずころ、先生は「慶応は混みあっおいるので、私が非垞勀で行っおいる囜立倧蔵病院はどうだろうか」ずお話しくださり、1968幎12月初めに私は䞖田谷にあった囜立倧蔵病院に入院した。絶察安静3日を含むほが1か月を、私は心臓から内臓党䜓ぞの皮々の粟密怜査を行っおで過ごした。すべおの怜査が終了した12月末に、先生はお正月は自宅がいいでしょうねず蚀っおくださり、私は12月27日か28日に自宅に戻った。幎が明け、1969幎1月に病院で粟密怜査の結果をお聞きした。「症状は確かに今も続いおいるが、それを匕き起こす䞻芁な原因は今のずころ確認できない。埓っお、今埌も定期的に通院しながら症状の経過を芳察するのがよいずおもうが、珟状では特段心配するこずはないずおもう、普通の生掻をしおいおよいでしょう」ずおっしゃっおくださった。䞍安を抱えながら過ごすのはき぀かったので、このずき私は本圓に安堵した。その埌定期怜蚺は倏ず冬の二回、数幎埌には春先に䞀回通院し、各皮の怜査を受け続けた。そしお私が30歳になる1977幎頃、先生は、「あなたはもうほが健康になった、これからは通院も怜査も必芁はない、薬も飲たなくおよい」ずおっしゃっおくださった。先生は名医であった。ある幎の通院時に、新しい薬を凊方されたこずがあったずき、先生は「この薬は副䜜甚が出るこずがある、もしなにか気づいたこずがあったら、次回通院時に連絡しおほしい」ず、おっしゃった。月日を経お、次の通院時に「このような症状がありたした」ずお䌝えするず、先生はその堎ですぐ、「それではこの薬はやめたしょう」ず刀断された。患者である私のこずばに察しお、先生は぀ねに簡朔にしかも力匷く応察しおくださった。今でも私は、私の質問に察する先生の説明を詳现におがえおいるこずが䞀件ある。和光卒業を控えた早春、私の高校勀務が確定したずき先生にお尋ねした。「先生、私の䜓は高校勀務に耐えられるでしょうか」。そうするずこのずき先生は、手元のメモ甚玙にゆるやかな䞋降カヌブを曞き、「田䞭君、人は二十歳を過ぎたら、その機胜はみなだれでも緩やかに䞋降しおゆくんだよ、だからそのカヌブをいかに緩やかにするかが倧切なんだ、君の䜓は少し血圧が高いずいう埌遺症を残したかもしれないが、今ではもうほが正垞に戻っおいる、だから経過芳察は必芁だが、安心しお勀務しなさい」ずはっきりず励たすようにおっしゃっおくださった。1969幎1月初めの怜査結果を受けお、私は倖語䞀幎時秋から考えおいた他倧孊ぞの転孊を決めたが、䞭囜語を䞭心ずした専攻を䞀幎から行うやや特殊な倖語から、普通の文孊郚ぞ転孊する道はそれほど広くはなかった。ある朝新聞を芋るず、新蚭倧孊の状況を䌝える蚘事が目に留たった。その䞭の䞀぀に和光倧孊があった。人文孊郚があり日本文孊を専攻できる、倚分それだけを確認するず、私は可胜ならばこの倧孊ぞ転孊したいず心に決めおいた。倖語の堎合もそうであったが、私はこうした遞択のずき、実地芋孊をしたり、情報を集めたりするこずはほずんど無かった。それが私の生き方であり、生涯そうした圢で過ごしおきた。和光倧孊はいかにも新しかった。しかし線入孊埌、雚が降るず暋で雚を受けきれなくお、雚氎が溢れるような状況はただ知らなかった。食堂のコンクリヌトの床が凞凹しおいお、100円ラヌメンの汁が溢れそうになったこずが幟床かあった。それでもこの倧孊には、こずばではずうおい衚珟できない、枅新ななにかが満ちおいた。私はそれを぀ねに肌で感ずるこずずなった。䞘の䞊の小さな倧孊は、その埌、私にずっお䞀぀の奇蹟ずなった。



6.1966 T he first president UMENE Satoru

6.1966The first president UMENE Satoru1966幎初代孊長 梅根悟私は開孊4幎目の1969幎に人文孊郚文孊科䞉幎に線入孊したが、その盎埌から「小さな実隓倧孊」ずいうこずばは耳にしおいた。しかし、それがどのような内容を持぀のか確認するこずなく、1971幎3月に卒業した。実隓ずいうこずばが、私自身にずっおも重芁なものずおもうようになったのは、1980幎代末以降、蚀語の普遍性Langauge universals を远究するようになっおからだずおもう。私は1970幎代末から蚀語の実圚に぀いお考えるようになっおいた。しかしその明瞭な筋道を教瀺しおくださったのは、和光ののちの孊長、千野栄䞀先生であった。1979幎末から1980幎代の専攻科・研究生の時代に、私は先生の「構造蚀語孊」を受講し続けた。ある幎の新孊期などは、講矩前に比范的前列にいた私に向かっお、先生は「ただ聎くのかね」ずおっしゃっおから講矩に移られた。
先生の構造蚀語孊講矩は、かみくだいた平易な衚珟でなされたが、その内実は、1920幎代のプラハ蚀語孊サヌクル Linguistic Circle of Prague がその䞭栞に眮かれおいお、術語䞀語䞀語をずっおも、垞に歎史的な背景を持぀難解な内容を含んでいた。私がその䞭で生涯でもそうたびたびは蚪れないであろう䞀篇の論文を教えられた。
プラハ蚀語孊サヌクル Linguistic Circle of Prague の成員であった、セルゲむ・カルツェノスキむ Sergej Karcevskij の「蚀語蚘号の非察称的二重性」Du dualisme asymmetrique du linguistique 1929 である。この䞭で Karcevskij は蚀語ずいう実䜓の構造は二重になっおいるず䞻匵した。蚀語はなぜ時代を超えお、垞にその瀟䌚状況に的確に察応しお続けるこずができたのか。そこに䞀぀の仮説を提出した。数孊的には予想 Conjecture ず呌んでよいであろう。蚀語は瀟䌚の倉化に応じお、それにふさわしい察応をおこなうこずができた。蚀語は「固い郚分」ず「柔らかい郚分」ずからなり、「固い郚分」によっお、蚀語ずしおの連続性を保ち、「柔らかい郚分」によっお柔軟に瀟䌚の倉化に察応するこずができた、ずする。蚀語が二重の構造を持぀ずいう予想 Conjecture はもちろん数孊の予想ず異なり、蚌明されおいない。少なくずも蚌明されるべき䜓裁を敎えおいない。蚀語が実䜓を持぀こずも、実䜓が構造を持぀こずも、その構造が二重になっおいるこずも、すべお Karcevskij の盎芳に基ずく。埓っお蚌明もできない。
しかし私は、千野先生の教瀺のもずで、この論文が持぀、蚀語に察する方向性ずも呌ぶべきものの䞀぀の匷靭な思考に魅了された。1986幎3月で研究生を終え、みずからの石南文庫に䟝拠しながら、Karcevskij の呚蟺を圷埚した。しかし、この予想では、数孊的な 予想 Conjecture の䜓裁を敎えおいない。私は公理たでずはいかないたでも、より少ない前提から、このConjecture が内包する豊かな蚀語探究の道筋に埓っお、䞻に数孊の幟䜕孊的方法によっお、接近するこずを詊みた。それが䞀぀の圢ずなったのは、2003幎春からで、䞀篇の論文にたずめ、その冬には幞運にも、奈良で開催された囜際シンポゞりムで口頭発衚を行うこずができた。すでに56歳になっおいた。
QUANTUM THEORY FOR LANGUAGE
埓っお私は、みずからの経隓に基づき、実䜓あるいは倉化ずいうようなこずばに察しおは、きわめお敏感になっおいった。
和光倧孊の「小さな実隓倧孊」に戻ろう。簡玄すれば、実隓は目的に向かっおなされる。実隓は぀ねに実圚するものに察しお行われる。実圚するものを持たない実隓はあり埗ない。それならば、「実隓倧孊」においおは実圚する䜕に向かっお実隓を行うのか。そしおその実圚をどのように目的に合臎するように倉化させ動かすこずができるのか。
蚀語は倉化するずよく蚀われる。それならば倉化する実䜓が存圚しなければならない。蚀語の実䜓ずはなにか、それが私がかかえおいた重芁な䞻題の䞀぀であった。
「実隓倧孊」においお、実隓によっおどのような倉化が生ずるのか。どのような実圚に察しおどのような実隓をおこなうのか。文孊科に圚籍しおいた1969幎から1970幎圓時、私はそこたで考えたこずは䞀床もなかった。


珟況にふれながら考えるこずずする。『和光倧孊 2021幎床 倧孊案内』を芋るず、05頁䞋郚に「倧孊は自由な研究ず孊習の共同䜓」ず曞かれおいる。これが実隓をおこなう「実䜓」ずなるずおもわれる。この実䜓に察しお、この頁の䞭心に倧きく曞かれおいる「異質力ずはあなたに眠っおいるチカラ」ずいう「方法」あるいは抂念を甚いお実䜓に察しお実隓が行われる、ず考えるのが自然であろう。06頁最䞋郚では「和光倧孊の実隓は、今も倉わらず続いおいたす。」ず結ばれおいる。13頁から14頁では、「自由」ずいうこずばあるいは抂念が、問いかけられる「実䜓」ずなっおいる。「私たちはほんずうに「自由」なのか」「自由に生きるずはどういうこずか」15頁から20頁では「自由」は「実䜓」が有する「方法」ずしお甚いられおいる。「キャンパスを自由に飛び出しお」「自由に孊べ」「講矩バむキングずいう自由」ず続いおいる。以䞊のからによるず、「自由な研究ず孊習の共同䜓」ずいう「実䜓」は、「自由」ずいう「実䜓」の䞀属性が、䞍安定か、䞍明である珟況が瀺唆されおいる。埓っお「実隓」は、この䞍安定か䞍明な「実䜓」の珟況を克服するためになされるずみなすのが自然であろう。たたからは、䞍安定か䞍明な「実䜓」の珟況を克服するための「実隓」の「方法」ずしお、「自由」な行動が求められおいる。そしおこの「自由」な方法を駆䜿するための「チカラ」ずしお「異質力」が「眠っおいる」ず刀断されおいる。「自由」たるべき「実䜓」に察しお、「自由」な「方法」で克服しようずする、「自由」ずいう同䞀の語圙䜿甚は、これからの目的である「自由」ず珟圚における遞択の「自由」ずが混同しやすくなっおおり、やや䞍安定な印象を受ける。「自由」ずいう属性を有する共同䜓ずいう「実䜓」に向かっお、「自由」ずいう属性を有する講座バむキング等の「方法」によっお「実隓」を行なうずいうように受け止めるこずができる。しかし実䜓の䞭の自由ずいう䞀属性ず、方法の䞭の自由ずいう䞀属性はその母集団ずも呌ぶべき基盀が異なる。簡単な䞀䟋ずしお、二぀の母集団の成員数を䞀぀の「次元」ずしお考えおみよう。「次元」に぀いおは、基本的な孊術甚語の説明を重芖するこずずなった『岩波囜語蟞兞』第6版から匕甚する。「次元 倉化するものの状態が個の独立倉数でずらえられる時、そのをこの堎合の次元ず蚀う」講座を「自由」に受講するずいう「方法」の次元は、ある講座を甚意した䞀教員ずその講座を遞択した䞀孊生からなり、その講座の受講者が他に19名いたずする。クラスの成員数は21であり、これらを倉数ずしおみるず21次元ずなる。これに察しお、「自由」な研究ず孊習共同䜓ずいう「実䜓」の成員数は、䟋えば孊生数2000名教員数100名ずするず、この「共同䜓」の成員数は2100、これらを倉数ずしおみるず、2100次元ずなる。二぀の「自由」の次元はたったく異なっおいるこずがわかる。たた「自由」ずいう語の意味から、この二぀の「自由」の内郚構造が、異なっおいるずみるこずも可胜であろう。すなわち、「実䜓」ずしおの「自由」は、「個」を含むが「個」を超えるものを䞭心ずするのに察し、「方法」ずしおの「自由」は、「個」を超える䞭に䜍眮するが「個」ずいう䞭心による「遞択」がなければ達成されない。和光倧孊で今も続く「実隓」は、この「個」によっおなされる「自由」な「方向」によっお、「集団」から圢成される「自由」な共同䜓ずいう「実䜓」を䞍断に圢成させるこずができるだろうかずいう、方向をもっお䜍眮づけるこずができるであろう。 異なった二぀の「自由」は決しお容易には結び぀かないであろう。「方法」の「自由」は決しお「実䜓」の「自由」ではない。䞀方の「自由」を埗るこずによっお、他方の「自由」をも埗るこずにはならない。それを架橋させるこずは決しお容易ではない。「実隓」は絶え間なく続けるこずが必須ずなるずおもわれる。


ひるがえっお、和光倧孊の初代孊長であった梅根悟先生は、この倧孊をどのような堎ずしお構想しおおられたであろうか。『和光倧孊 2021幎床 倧孊案内』の06頁䞊郚に掲茉された「小さな実隓倧孊」ずいう郚分は、先生が誠文堂新光瀟から刊行された『生掻教育』1965幎5月号の䞭の「教育断想 和光孊園倧孊」の内容ず類䌌しおいるが、この断想の末尟で先生は次のようにに述べられおおられる。
「ただ孊問ず教育の奜きな連䞭が集たっお集団的に運営しおいる倧孊、その意味でペヌロッパの䞭䞖倧孊がその始原においお瀺したような、孊者教垫の集団りニノェルシタス、スコラリりムずしおの倧孊の理念を今日においお再珟したず蚀っおもいいような倧孊、それが和光の倧孊のあるべき姿ではないだろうか。和光孊園倧孊を䜜るこずに぀いおの盞談をうけながら、私は、そんなこずを考えおいる。」以䞊の先生の論述は1965幎であり、和光倧孊開孊の前幎であったが、先生はたた、倧孊の䞀぀の倧きな珟実ずしおの入孊詊隓に぀いお、のちに和光の入詊遞抜方匏ずしお採甚されるこずずなる「斜蟺方匏」に関しお、『䞭倮公論』1967幎3月号の「小さな倧孊を創っお䞀幎」で以䞋のように曞いおおられる。「斜蟺䞻矩で人材発掘斜蟺䞻矩ずいう蚀葉は湯川秀暹博士の提唱する入孊詊隓の改善案にちなんで私が䜜った蚀葉で、目䞋和光で流行しだしおいるずころである。䞭略湯川方匏はたこずに名案である。䞭略和光では今幎床は湯川方匏で遞抜したわけではないけれども、今幎入った第䞀期生をみるず、どうやらその䞭には斜蟺の長い孊生が割合にたくさんいるらしい。」さらに先生は1971幎に明治図曞から刊行された『ル゜ヌ「゚ミヌル」入門』においおは、先生が五十幎の長きにわたっお研究された、ル゜ヌの『゚ミヌル』の抂芁を玹介しながら、205頁から208頁にかけお、二぀の゚ピ゜ヌドを玹介しおおられる。䞀぀は、゚ミヌルが指物倧工の家で非垞勀の通勀職人ずしお働く話、もう䞀぀は倒れおいた幎取った蟲倫を助ける話である。先生はこの二぀の゚ピ゜ヌドに぀いお以䞋のように叙述される。ここには、教育史ずその実践に生涯をささげられた先生の軌跡が反映されおいるようにおもわれる。「この二぀の゚ピ゜ヌドは、第䞉巻以来、劎働ず隣人愛をいわば瀟䌚的存圚ずしおの人間の二倧資栌ずしお説いおきたル゜ヌが、この䜜品のクラむマックスずしお構想したものでありたしょうし、たたその積りで読むべきでありたしょう。」
梅根先生が1971幎、和光倧孊開孊6幎目に曞かれたこの本は、先生が倧孊卒業論文のテヌマずなさった「教育思想史における自然抂念及び合自然原理の発展」からの䞀぀の結論ずしおも読むこずができるのではないかず、私には感じられる。すなわち、自然抂念ず合自然原理が最終的に赎くずころがこの劎働ず隣人愛ではなかったのかずおもうのである。
先生が和光倧孊に蚗したものは、自然抂念ず合自然原理から劎働ず隣人愛ずいう瀟䌚的存圚ずしおの人間の資栌をいかにしお圢成するか、ずいうこずではなかったろうか。先生は「゚ミヌル」読解を続けた五十幎の歳月の䞭で、それがいかに困難であるかを身をもっお知ったがゆえに、それを成し遂げるためには、䞍断の実隓が必須であるずおもわれたのではなかったろうか。それが242頁の「私は和光倧孊をやはり、ル゜ヌの「゚ミヌル」の粟神で運営しおゆこうずしおいるのです。和光倧孊は倧孊レベルでの「新゚ミヌル」を詊行しようずしおいるず申しおよろしいず、私は考えおいるのです。」ずいう述懐ぞず導かれるようにおもわれる。
和光倧孊の新しい歩みにふれお付蚀する。2021幎3月8日朝日新聞朝刊の32面に、和光倧孊の「オヌプン・カレッゞぱいでいあ」の広告が掲茉されおいた。私はふず、千野栄䞀先生のこずを憶い出した。先生は長く朝日カルチャヌ・センタヌでチェコ語を教えられた。向孊心にあふれる䞀般の方々ぞの孊問的揎助を先生は生涯保ち続けられた。
私は家族の理解ず倜間ぞの定時制勀務が可胜であったために、昌間に和光においお専攻科生および研究生を続けるこずができ、倚くの出䌚いず支揎ずささやかではあったがみずからの孊的成果を埗るこずができたが、特に時間的な制玄のために、みずからの垌望を十分には生かせない方々は倚いずおもわれる。「ぱいでいあ」はこれたで、そうした人々に最先端の孊問的成果を䌝え、共に孊び進む、絶奜の機䌚をもたらしおきたであろうし、これからもさらにその必芁床は高たっおゆくであろう。䞊行しお、Computer の応甚が急激に進む時代はさらに拡倧しお続くであろう。和光倧孊がさらに新しい実隓倧孊をめざす䞭で、こころざしを抱きながらも「その堎でその時間に孊べない」方々のために、 Web 䞊での遠隔講座等を含むより䞀局の新たな詊みを続けられるこずを、切に垌う。たずえば必芁ずおもわれる以䞊の広範な資料を、教授偎がWeb䞊に Upload しおおき、孊習者はその広範な資料の䞭から、自分に適した資料を遞択し、思考し、その結果をふたたび資料によっお点怜・補正し、修敎しお、みずからの圓面の結論を導き、それを教授者偎に添付・送付するようなこずは、珟状でも可胜な展開であろう。Web䞊では、すでに倚くの Charge Free 料金無料な極めお有甚な Tool が、倚数提䟛されおいる。私自身の仕事もほずんどそれらを利甚しお行っおいる。珟状では、日本語によるそれらぞの Approach 接近が必ずしも十党ずは蚀えないので、そのためには、よく蚀われる Programming などの難しい方法ではなく、簡䟿な Web 䞊の英語による怜玢ず Site 䜜成等の䜜業手順のための準備の講座をたず甚意する必芁があるかもしれない。 Charge Free な自分にふさわしい Free Site を構築しおおけば、みずからの Site ず教授者の Site ずを Time Free に、時間の制玄なく接続しお、みずからの Off Time、空き時間に勉匷や研究を無理なく続けるこずができるであろう。問題はりむルスの存圚であろうが、これも、量子暗号が急速に実甚化の方向にあり、関連した暗号理論も進化しおいるので、通垞の通信はより安党になされるであろう。私が蚀語の䞀぀ずしお、Millennium の2000幎頃に量子暗号の初歩を孊んでいたずき、その実珟は2020幎頃ずなるであろうず蚀われおいた。その予想はほが的䞭したず蚀える。私が初めお Computer を操䜜したのは、1976幎であった。新蚭された郜立青梅東高校に転勀し、先進的な教育を考える教員の提蚀によっお、小型の Computer が導入されたからであった。圓時の私には、Computer の教育ぞの揎甚は䞍可胜ずたでは蚀わないたでも、かなり難しいだろうずいうのが、実感だった。倚くの教員も倚分そう考えおいたずおもう。確かに、詊隓採点の集蚈、平均点の算出等の数倀凊理は、栌段に速く䟿利であった。しかし、生埒ずの察面授業に係わるこずが可胜だずは、考えられなかった。しかし時代はその埌急激に倉わっおいった。私自身は1986幎に石南文庫を蚭立するず同時に、Sharp の Xを賌入し、初歩的な Programming を含めお、いく぀かの Data 凊理に Computer を揎甚した。圓時で1䞇円もした、小さな マりスが Computer 雑誌の広告に茉っおいたずき、確かにネズミに䌌おいるが、䜕に䜿うかはたったく想像が぀かなかった。基本的にIBM 系のマシンはすべおキヌボヌドからの打ち蟌みだったからである。時代が急激に倉わり぀぀あった。1999幎に私は圓時を回想した小文を曞いおいる。
PAPA-WONDERFUL-27-COMPUTER
21䞖玀は確実に芖芚蚀語の時代になるず私は予想しおいる。芖芚蚀語は、高容量の情報を、ずきに異蚀語の壁を越えお、 正確で迅速に䌝達する。EMOJI 絵文字は、今や䞖界共通の蚀語の䞀぀ずなった。たた LA TEX Symbol は今では楔圢文字、゚ゞプトの象圢文字から珟圚䜿われおいる音笊・音楜蚘号等に至る各皮の笊号たでを、デゞタル化し぀぀なおも進化発展を続けおいる。私はこの状況の蚀語的な背景を先幎、いく぀かの Paper および Essayずしおたずめた。 ここでは、日本語による Letter to Y. Toward Geometrization of Language 2018 ず、英文による The Days of Ideogram Ideogram from hieroglyph to LATEX Symbol List 2018 を参考たでに提瀺する。
LETTER TO Y. TOWARD GEOMETRIZATION OF LANGUAGETH E DAYS OF IDEOGRAM IDEOGRAM FROM HIEROGLYPH TO LATEX SYMBOL LIST
か぀お孊んだ䞀孊生ずしお、和光倧孊のさらなる飛躍を垞に願っおいる。


1967-1976

7.1967 Assumption to Wako

7.1967Assumption to Wako1967幎和光倧孊ぞの着任華埜井先生はどのような経緯を経お、和光倧孊ぞ着任なさったのだろうか。先生が若き優秀な研究者であったこずがその前提であろうが、新蚭ではあるが和光倧孊ぞ倧孊院博士課皋修了ず同時にフランス文孊の専任講垫ずしお招聘されたこずに぀いお、私は今かすかな仮定を抱いおいる。それに぀いおは、和光倧孊初代孊長梅根悟先生の略歎に觊れるこずずなる。昭和56幎に癜桃曞房から刊行された和光倧孊経枈孊郚による『マルサス・リカヌドずその時代』は「和光倧孊経枈孞郚創立十五呚幎蚘念号」ず「梅根悟博士远悌論文集」の副題を内扉に掲茉しおいる。この論集そのものは私にずっおは圓然難解で、十分な理解からは皋遠いものがあるが、208頁から巻末にかけおは、和光倧孊初代孊長であった梅根悟先生に関する「梅根悟博士略歎および著䜜・論文目録」が収茉されおいる。以䞋では「略歎・目録」ず簡称する。私のこの論考で䟝拠する梅根先生の略歎・著䜜名・論文名に぀いおは、すべおその内容から抜出したものであり、和光倧孊経枈孊郚ならびに「略歎・目録」の䜜成者に深く感謝申し䞊げる。梅根先生は、明治36幎9月、犏岡県に生たれる。倧正8幎4月、小倉垫範孊校入孊。倧正12幎4月、東京高等垫範孊校入孊。「かたわら東京倖囜語遞科倜孊に入孊し、フランス語を孊ぶ。」昭和5幎4月、東京文理科倧孊教育孊科入孊。昭和8幎3月、東京文理科倧孊卒業。昭和23幎10月、「コア・カリキュラム連盟結成に尜力。副䌚長ずなる。」昭和29幎4月、「東京文理科倧孊より文孊博士の孊䜍を受ける䞭䞖ドむツ郜垂における公教育制床の成立過皋。」昭和37幎4月、東京教育倧孊教育孊郚長。昭和38幎7月、東京教育倧孊孊郚長蟞任。昭和39幎6月、「和光倧孊創蚭準備に着手し、「実隓倧孊」の構想を緎る。」この略歎から、梅根先生は東京高垫に入孊するかたわら、倖語の倜孊にも入孊しフランス語を孊んでおられたこずを知る。先生語ご自身の著述に぀いおは、先生は1971幎5月に明治図曞から『ル゜ヌ「゚ミヌル」入門』を䞊梓しおおられる。
「私は倧正八幎に犏岡県の小倉垫範孊校に入孊したしたから、倧正十幎、䞉幎生のころに教育史を習い、それでコメニりスだのル゜ヌだのペスタロッチだのずいう、教育思想家の存圚を知ったわけでありたす。たた「゚ミヌル」のこずを知ったわけでありたす。」「私はそれから東京高等垫範孊校に入孊したした。倧正十二幎」「その頃は蚳本で「゚ミヌル」党篇を読むこずはできたせんでした。そこで私は、゚ミヌルを読むためにはフランス語の勉匷をしなければず思い、䞉幎生になった四月から東京倖囜語孊校の第二郚倜間郚フランス語科に入孊するこずずし、それから二幎間、そこに圚孊したした。だから私がフランス語の勉匷をはじめたのは、「゚ミヌル」を読むためだったず蚀っおも蚀いすぎではないのです。」「昭和五幎に私は東京文理科倧孊に入孊したした」「倧孊䞉幎間の研究テヌマずしおは新教育運動の思想的、理論的源泉をはっきりさせる、ずいうこずに心をきめおおりたした。こうしお遞ばれたのが卒業論文のテヌマ「近䞖教育思想史における自然抂念及び合自然原理の発展」でありたした。その䞭味は第䞀章がコメニりス、第二章がル゜ヌ、第䞉章がペスタロッチずいうわけでありたした。」「私は和光倧孊をやはり、ル゜ヌの「゚ミヌル」の粟神で運営しおゆこうずしおいるのです。和光倧孊は倧孊レベルでの「新゚ミヌル」を詊行しようずしおいるのだず申しおよろしいず、私は考えおいるのです。」「前埌五十幎の間、「゚ミヌル」をあたためおきたした。そしお私は、私の教育思想の育おの芪はル゜ヌの「゚ミヌル」であるずかたく信じおおりたす。」
以䞊の決意を、梅根先生は、1971幎5月刊行の『ル゜ヌ「゚ミヌル」入門』で明確に述べおおられる。私がこの論述の䞭に、梅根先生ず華埜井先生の信頌のきずなが芋い出せるようにおもわれおなりたせん。先生の卒業論文のテヌマ「近䞖教育思想史における自然抂念及び合自然原理の発展」が華埜井先生の和光の『人文孊郚玀芁 1966』に発衚された論文「スタンダヌルず宗教」の「はじめに」での論述ず深く和合するようにおもえるからである。以䞋で『玀芁』の35頁から抜出し匕甚する。「スタンダヌルは「癟科党曞掟的粟神に特別の信頌を持ち続けるず共に、クレロヌ、ダランベヌル、ラグランゞュの埒の劂きが、物理的䞖界を圓時了解せられおいたような姿で衚珟するために甚いた、あの矎しく玔粋な分析的構成法を暡範ずしお建蚭された䞀䜓系、明確に蚘され、論理的に組み合わされ埗る粟密な諞法則の、完成せる䜓系ずいうものに人間の知識を還元しようずする、十八䞖玀埌半の倧願望をも恐らく倱っおいなかった。」であろう」ノァレリヌ『ノァリ゚テⅡ』, 113頁, 癜氎瀟刊華埜井先生は、スタンダヌルが時代の䞭で生きる姿に぀いお、ノァレリヌを匕甚しながら簡朔に述べおおられる。私には梅根先生ず華埜井先生の近䞖・近代が合わせ鏡のように笊合するようにおもわれるのである。華埜井先生は東京教育倧孊で修士および博士課皋を修了されおいる。フランス語に堪胜でいらした梅根先生が䜕らかの圢で、同倧孊でフランス文孊を専攻されおいた華埜井先生の存圚を知り、その研究基盀に、あるいは梅根先生の若き日の「自然抂念」「合自然原理」の研究におもいを臎したこずもあり埗たかもしれない。そうしたこずが郚分的にでもあり埗たならば、倧孊院修了盎埌の華埜井先生が、和光の仏文専任講垫ずしお招聘されたこずは極めお自然におもわれおくるのである。このような思玢の結果、私は今では、華埜井先生の和光での論文は、あるいは梅根先生ぞの䞀぀の答瀌も含んでいたかもしれないずいうおもいを犁じ埗ない。華埜井先生は、梅根先生ぞの感謝ずみずからの研究ず教授の新たな出発を重ねおお思いになりながら、論文「スタンダヌルず宗教」を若き和光倧孊に提瀺なさったのではなかったか。
8.1967Clean

81967Clean1967幎枅朔
華埜井銙柄 (はなのい かずみ先生はどのような先生でいらしたか。華埜井先生は、昭和14幎1939幎1月、愛知県東加茂郡に生たれる。昭和36幎1951幎名叀屋倧孊卒業。昭和39幎1954幎東京教育倧孊倧孊院仏文専攻修士課皋修了。昭和42幎1967幎東京教育倧孊倧孊院仏文専攻博士課皋修了。昭和42幎1967幎4月和光倧孊仏文専任講垫。昭和46幎1971幎4月和光倧孊助教授。昭和51幎1976幎4月26日に逝去され、和光倧孊より教授の称号を遺莈される。享幎37歳。先生のお名前は、『人文孊郚玀芁  1966 和光倧孊 』裏衚玙の衚蚘では 「Hananoi Kasumi 」ずなっおおり、たた線曞である1972幎に䞉修瀟から刊行された線著『悪魔のしっぜ フランスのの昔話ヌ』の奥付では「華埜井銙柄はなのい かすみ」ず蚘されおいるが、本論考では、実匟でいらっしゃる華埜井究氏のご教瀺に基づき、「かずみ」ずし、英文の衚蚘も「Kazumi」ずする。先生の生家は、真宗倧谷掟の寺院、愛知県に䞭䞖から所圚する専光寺であり、先生は寺院を埌継する専光寺䜏職第14䞖若院でいらしたが、のち孊問の道ぞず進たれた。私が先生をキャンパスで拝芋した容姿は぀ねに端正であったが、私はフランス語初玚を受講した、倚くの受講者の䞀人にすぎず、先生ず盎接お話しするこずはなかった。先生の生家が寺院でいらしたこずは、1960幎代末の日本文孊科の䞉、四幎の孊生の倚分倚くにずっお呚知であったずおもわれる。そのこずを瀺す䞀぀の芁因は、初代文孊科長でいらした近藀忠矩先生が、自らの死去にあたっおは華埜井先生に読経しおもらうこずになっおいるずいう話題が、少なくずも日本文孊専修のれミに参加しおいた孊生が集う研究棟では呚知になっおいたからである。私も線入孊埌、研究棟でたもなくそのこずを仄聞し、近藀先生ず華埜井先生ずの深い信頌関係をおもい図った。しかし、近藀先生が本圓にそのようにおっしゃられたかどうかは、それ以䞊はわからないたた卒業に至った。近藀先生の真意を確認できたのは、近藀先生が昭和51幎1976幎に逝去された翌幎の1977幎に、笠間曞店から笠間叢曞66である『日本叀兞の内ず倖』ず題された先生の論考集が刊行されたからであった。この曞は401頁の倧曞で、「線集者あずがき」を執筆された猪野健二先生はその冒頭で以䞋のように述べおおられる。「本曞は故近藀忠矩先生の戊埌における孊問䞊の業瞟のほが党䜓を網矅するものであり、その意味では戊前の「日本文孊原論』ずずもに、先生の䞻著䞭の双璧ず芋るべきものである。」この論考集の342頁に「埌顧の憂い陀く」ずいう随想が収められおいる。その䞭で近藀先生は以䞋のように述べられおいる。「長寿かどうかは別ずしお、あずあたり時間が無いこずは確かなので、数幎前からその぀もりで、いろいろ蚈画を立おおはいる。たずえば、墓石は孊生の石屋さんの嚘さんに、読経は枅朔な若い同僚に、それぞれお願いしおある」「朝日新聞」昭四六・四・䞀九この文䞭の「枅朔な若い同僚」が華埜井先生であった。近藀先生は「枅朔」ずいうこずばで、華埜井先生の容姿を圢容された。圓時、華埜井先を身近で接した孊生もきっず同様のこずばで先生を敬しおいたのではないかずおもわれる。華埜井先生の読経のお話しが孊生の間に流垃したのは、近藀先生がその孊問ずお人柄によっお孊生に深く敬愛されおいたからだずおもう。その先生が若い華埜井先生を信頌しおいる、その信頌関係が研究棟に集う孊生の共感を呌んだのではなかったか。私が研究宀でこの読経のお話を仄聞したのは線入孊した1969幎であり、近藀先生の随想には昭和46幎1971幎の蚘茉があり、お二人の先生はその信頌関係を倉わるこずなく継続なさっおおられた。近藀先生は兵庫県、華埜井先生は愛知県のお生たれで、日本近䞖文孊ずフランス近代文孊のお二人は和光でどのようなお話をなさっおいたのだろうか、今ずなっおはもうお聞きする術はないが、今もずきどきふずそうおもうこずがある。最埌に、私にずっおは近藀先生のおもいがけない䞀面を付蚘する。平成30幎2018幎の倏の甲子園で、秋田県立金足蟲業高等孊校が準優勝した。遞手は勝ち進むたびに胞を匵っお校歌を歌い、䞀戊ごずに球堎に感動を広げおいき、私もその姿に感動した䞀人であった。そしお私が泚目したのはその校歌の䜜詞者が近藀忠矩ず衚瀺されおいたこずだった。
私は倧䌚終了埌すぐに、金足蟲業高校ぞメヌルを送り、䜜詞者が和光倧孊の近藀先生であるかをお尋ねした。折り返し高校からご返信があり、「確かに和光倧孊の近藀先生です」、ずいうご返事であった。「ただ䜜詞䟝頌等の詳现な経緯に぀いおは、今ずなっおはたったく䞍明です」、ずのこずであった。秋田県立金足蟲業高等孊校の蚱諟をいただき、 以䞋に同校の Home Page に掲茉されおいる校歌を転茉するにあたり、同校のご配慮に感謝申し䞊げたす。これからも、近藀忠矩先生の歌詞ず岡野貞䞀先生の䜜曲による秋田県立金足蟲業高等孊校の校歌は、悠久の倧地を拓きゆく若人の姿を未来ぞず䌝え続けるであろう、あの甲子園のさわやかな日々のように。
© 秋田県立金足蟲業高等孊校

9.1969If you be permitted to enter

9.1969If you be permitted to enter1969幎もし君が合栌したら昭和44幎1969幎4月、私は和光倧孊人文孊郚文孊科䞉幎に無事線入孊するこずができた。線入孊応募曞類を持っお、倚分2月のある日に和光を初めお蚪れたずきは、緊匵しおいたのか、和光坂の付近は、圓時はただ小田急線ずの間に冬の氎田が、现長く道に沿っお広がっおいたであろうに、その颚景の蚘憶はたったく欠萜しおいる。ただ和光坂を䞊るずころから、ああ、いい䜍眮に建っおいる倧孊だなずおもったこずをおがえおいる。私は東京の西郊、狭山䞘陵の麓で生たれ、育った。䞘陵は芪しいずいうより、私の䜓に沁み蟌んでいる。倧孊の䞀宀で、私は曞類䞊の、特に取埗科目ず取埗単䜍数が和光の線入孊条件に合臎するかどうかが気になっおいた。倖語は䞀幎次から専門科目である䞭囜語が突出しお倚く、私は日本文孊専修を望んでいたが、それに類した単䜍は䞀般教逊の「文孊」以倖たったく取埗しおいなかった。担圓しおくださったのは、のちに職業教育等の分野で䞻導的な孊瞟を瀺される山厎昌甫先生の若き日のお姿だった。このずき面談しおくださった山厎先生の枩かさは、䞍安でいっぱいだった私の心をほんずうに優しく包んでくださった。私は先生に、「日本文孊関係の専門科目はなにひず぀取埗しおいたせんので、文孊科の堎合、二幎からの線入になるでしょうか」ず事前に考えおいたこずをお䌝えした。先生はこれに察しお、「文孊科の二幎生は定員が䞀杯になっおいるので、今幎床の線入孊の募集は行なわないのです」ずおっしゃった。「ただ䞉幎は定員に空きがあるので募集したす。もし応募するなら、䞉幎になるずおもいたす」ず続けられお、私の持参した単䜍取埗衚を手に取っお点怜しおくださった。私はそのずき、日本文孊関係がたったく未取埗で、䞀挙に䞉幎ぞ線入するこずはほずんど䞍可胜だろうず、そのずきおもった。しかし単䜍取埗衚を点怜された先生のご返事に、私は本圓に安堵した。先生は「単䜍取埗の状況は和光ず違いたすが、総取埗単䜍数は条件を満たしおいたすし、確かに和光は䞀幎次から文孊関係の専門科目の取埗が入っおいたすが、あなたの堎合は、䞭囜語の専門科目の取埗が倚いので、それを読み返れば、和光二幎修了時を満たすでしょう。」ず私を安心させるように、穏やかに優しく説明しおくださった。私がなぜ和光をめざしたのか等の個人的な状況には䞀切觊れず、「受隓資栌は䞉幎線入で倧䞈倫です」ず励たすようにお話ししおくださった。なんずいう優しい先生なのだろうず感じたそのおもいは、半䞖玀を過ぎた今もたったく倉わらず、むしろより匷くなっお私の心に残り続けおいる。私が和光を卒業した1971幎3月から、はるかのちの1990幎代に、Internet による情報公開が通垞ずなったずき、和光倧孊の Home Page に掲茉されおいた孊生通信のバックナンバヌによっお、山厎先生が、和光倧孊蚭立準備時に法的なこずも含む耇雑な業務を準備職員の䞭心ずなっお行っおいたこずを知った。そうした倚忙の日々においお䞀線入垌望孊生にかくも现やかで優しいお話ができる先生に、深い敬愛の念を抱き続けおきた。私はこの幎1969幎に、和光以倖の線入孊の遞択肢をたったく持っおいなかった。今おもえば、もしだめだったらどうしたのだろうかずおもうが、この幎1969幎の正月に朝日新聞に新しい倧孊ずしおのいく぀かの倧孊の䞀぀ずしお和光が茉っおいたずきに、どういう芏暡で、どんな先生がおられるのか等の条件を䞀切考えるこずなく、私は和光を遞んでいた。
私の町に䜏む高校の倧先茩で八十歳を超えられおも研究を続けられおいる、日本近代史が専門で、のちに高校孊校長になられた神山先生が、川厎庞之先生の著䜜集のこずなどのこずを、先生の埡自宅で話題ずされたずき、和光の川厎庞之先生ず私ずの出䌚いを、「運呜的だったね」、ずおっしゃられたこずがあった。私はそれたでそうしたこずをたったくおもわずにいたが、そうか、運呜的だったのかず今曎ながらおもったが、和光ぞの線入孊も、やはり運呜的だったのかもしれない。
老幎になるず、フランスの哲孊者ガブリ゚ル・マルセルがか぀お述べたように「みずからの姿のすべおが遠い颚景になったずき」、そうしたこずがいく぀かあったこずに、あらためお気づくのであろうか。和光に぀いおはもう䞀぀、倧きな転機があった。教員勀務が八幎目ずなった1978幎、私は勀務二校目の郜立青梅東高校の䞉幎の担任ずしお卒業生を送り出すず同時に、1979幎4月には私も新しい方向をめざそうずおもうようになり、倜の定時制ぞ転勀し、昌間は修士課皋等なんらかの新しい勉匷を再開したい垌望を織り蟌んで、この幎に転勀願いを提出しおいた。しかし1979幎2月になっおも、定時制ぞの転勀の芋通しがなく、私は通垞の党日制ぞの転勀の準備を行ない、すでに䞀぀の郜立高校の面接を受けおいた。その最終的な受諟の面接に行く圓日、私が玄関で靎を履こうずしおいたずき電話が鳎り、受話噚を取るず、孊校長から定時制転勀の空きができたので応募するかずの確認電話であった。私はその堎で応諟し、府䞭垂にある郜立蟲業高校ぞの面接に行くこずずなり、そこぞの転勀が数日埌すみやかに決定した。もしこの日電話がなかったら、私は党日制ぞの転勀ずなり、新しい昌間の勉孊の垌望は圓面䞍可胜ずなっおいたであろう。しかし1979幎2月末頃のその時期は倧孊はすでに幎床末に入っおおり、そのずきからではもう倧孊での修士課皋等ぞの応募は難しくなっおいた。ずころが私が高校教員でか぀和光の卒業生であったために、圓時私のずころには毎幎、和光の新しい倧孊案内が送られおきおいた。それをあらためお開くず、専攻科ぞの受隓申し蟌みがただ可胜なようだった。そこには専攻科の受隓申蟌甚玙は入っおいなかったので、私は普通の倧孊受隓の申蟌曞に、たしか専攻科の受隓申蟌ずはっきりず手曞きしお、和光に曞類を送ったずおもう。もしだめだったら定時制には移れるのだから、たた来幎新しく方向を考えようずおもっおいた。幞いにその申し蟌み甚玙で、和光は私の専攻科受隓を認めおくださり、1979幎4月、詊隓を受けお、私は専攻科に入るこずができた。その頃の私は、もし修士課皋に入るなら、珟圚たでの高等孊校囜語科教員の履歎から、囜語孊あるいは囜語史ならば応募が可胜だろうかなどず、挠然の考えおいた。そこからならば、のちに蚀語䞀般ぞ向かうこずができるかもしれないなどず考えおいたのだずおもう。しかし幎床末の遞択の䞭では最終的に和光が残り、私はふたたび、か぀お孊んだ人文孊郚で人文孊専攻科生ずしお受隓に臚むこずずなった。そのずき思い浮かんだのが、川厎庞之先生の仏教史を通しお、孊郚圚籍䞭は五山文孊のこずを少し調べただけで終わった日本仏教の歎史を通しお、最䜎限でも叀代日本の挢籍を少しは読めるようになるかもしれないず、短い時間の䞭で真剣にみずからの圓面の研究察象を考えるこずずなった。しかし卒業埌すでに八幎を過ぎた䞭で、事前に川厎先生にご連絡を取るこずはためらわれ、そうした連絡を䞀切行わないたた、私は詊隓に臚んだ。教宀で英語読解のテストがあり、その埌口頭詊問が別宀で行われた。先生はお二人で、文孊科で日本䞭近䞖が埡専門の荒朚繁先生ずもうお䞀人はお名前を存じ䞊げない先生だった。荒朚先生が䞭心ずなっお詊問され、最埌に川厎先生にはご連絡しおいたすか、ず問われたずき、ただご連絡しおいたせん、ずだけお答えした。通垞はやはりそうすべきであったのかず、おもった。幞いに無事合栌した埌、川厎先生にお電話でご連絡しご指導をお願いしたこずが、その埌 、専攻科生・研究生ずしお䞃幎間の長期にわたる先生のもずでの再勉匷の始たりずなった。もしすみやかに定時制ぞの転勀が決定しおいたら、あるいは私は合吊を別ずしお、ただ修士課皋のなかった圓時の和光ではなく、他倧孊ぞの修士受隓の方向をめざしおいたかもしれない。しかし事実はこのように進んだ。それも䞀぀の運呜的なこずであっただろうか。高校二幎の孊幎末の春近き䞭で、ルむ・゚モンの『癜き凊女地』の読埌を通しお、皚拙ではあったが、宗教的な決定論ず自由意志論の遞択においお、困難は続くずしおも私は自由意志論の方に進むであろうずいう結論を出しお、倫理瀟䌚の孊幎末レポヌトを提出したずきから珟圚に至るたで、私の根本姿勢はそれほどの激倉はなかったずおもう。遠いむかし、父ずの䌚話の䞭で、父がふず、運呜的なこずはあるずおもうよず私に告げたずき、若い私は䞍満であったが、その埌八十二歳で亡くなるたで、私のすべおの行動に察しお、父は぀ねに「おたえの奜きなように生きなさい」ず私を支揎し続けおくれた。今は深い感謝をもっお、さらには、運呜的なこずもあるかもしれないね、ずいうこずばを添えお、父に䌝えたいおもいは尜きない。1969幎春の線入孊に戻ろう。山厎先生の優しい励たしもあっお、私は線入孊詊隓を受けるこずずなった。ここで私は文孊科の宮厎健䞉先生にお䌚いするこずになった。教宀の筆蚘詊隓で英語読解があったこずは蚘憶しおいるが、自由䜜文あるいは課題䜜文があったかどかうかはもうおがえおいない。これが枈むず堎所を移しお、研究棟の宮厎健䞉先生の研究宀に䞀人で䌺ったずおもう。そこで面接詊隓を受けるこずずなった。この日の文孊科ぞの䞉幎線入孊詊隓は私䞀人であったようにおもう。研究棟は静たりかえっおいた。先生の研究宀での詊問の終わり近くで、宮厎先生は私に奜きな詩人に぀いお尋ねられた。私はその内の䞀人に、東京郜立青梅図曞通で芋お衝撃を受けた、21歳であった若き日の谷川俊倪郎の詩集『二十億光幎の孀独』を挙げたが、それ以倖に誰を挙げたかは今はもうおがえおいない。もしかしたらその䞭の䞀人に、西脇順䞉郎を挙げたかもしれない。氏の『旅人かえらず』はそれたでの私の詩のむメヌゞを倧きく倉えるずずもに、詩の内容に小平など倚摩地域の雰囲気が随所に感じられ、繰り返し読んでいた。萩原朔倪郎や䞉奜達治も奜きだったが、その名を答えたかどうかは、おがえおいない。するず先生は最埌に私に察しおこう話された。「君の筆蚘詊隓がどうだったか知らないが、もし合栌したら、私の家に来なさい。」線入孊詊隓合栌埌、ただ和光に登校する前の倚分3月䞭に、私は宮厎先生の埡自宅に䌺った。どうしおそれが可胜ずなったのか今も䞍思議だが、倚分先生が面接詊隓のあず、電話番号を教えおくださったずしか考えられない。そうでなければ、先生の䞭野の埡自宅の堎所や、蚪問日の決定などできなかったはずだ。先生のお家は黒塗りの塀に囲たれお立掟であり、先生の詊隓時の初印象がややいかめしい感じだったので、私はきっずおどおどしおいたかもしれない。先生は私を座敷に招じおくださり、いろいろなお話をしおくださった。そのこたかな内容の䞀郚しか今はおがえおいないが、その䞀぀に、先生ご自身が珟圚取り組んでいらしゃる研究に぀いお話された。「今、䌊良子枅癜に぀いお調べおいる」ず。私も詩人のその名前だけは知っおいたが、その詩を読んだこずはたったくなかったので、お聎きするだけだった。先生は枅癜に぀いお、お話しおくださったが、悲しいこずに今はたったく憶い出せない。『倧蟞林』䞉省堂・1988幎によれば、䌊良子枅癜18771946は「幻想的神秘的か぀粟劙な象城詩人ずしお「文庫」掟の䞭心的存圚であった。詩集「孔雀船」」ず蚘茉されおいる。線入孊埌、私は先生の「近珟代詩」講読を受講したが、先生が日本の代衚的な象城詩人である蒲原有明18761952や薄田泣菫18871945を高く評䟡しおおられたこずを知ったが、䌊良子枅癜に぀いお特別な蚀及はなさらなったずおもう。深く蔵しおおられたのだろうか。線入孊埌、私は先生が枅廉でい぀も慎重なご刀断をなさり、教務郚長をなさるほどでいらっしゃったのに、それゆえにどうしお、「もし受かったら私の家に来なさい」ずおっしゃたのだろうか。それがずっず䞍思議だった。家内ずむかしの話をするずき、い぀もそのこずが出おきた。家内も、そんなこずがあるのね、ずそのたびに䞍思議がっおいた。それにどうしお、日本叀兞文孊の玠逊等たったく持たなかった私に、明治時代の詩人䌊良子枅癜を研究しおおられるなどず䌝えおくださったのだろうか。はるか埌幎になっお、若幎だった私自身を、青春に出䌚った䞀人の他者のように、かすかな遠景のようにみるようになっおから、少しだけ先生の埡気持が理解できるようになった。これは倖語の教授でいらした、詩人・仏文研究者であった安東次男先生のお宅をアポむントなしで蚪問したずきも、先生は私をあたたかく迎えおくださったこずずも通ずるずおもうが、私が非孊で、才うすき若者であっおも、それなりに孊ぶこずに真剣で、文孊をあたり読んでいないようだが詩が奜きな、こころざしだけはなんずか持っおいるらしい田舎の青幎を、寛倧に凊遇しおくださったのではなかったか、そんなふうにおもうようになった。高校時代の芪友だった金子は私に面ず向かっお、おたえそれでも物理をやるのか、ず蚀い切ったが、私は本来の楜倩をどこかに持ち続けたたた、倚分倧人になった。語孊も奜きだが、たいした実力もなく、数孊にもあこがれたが、珟代数孊をかすめるだけで、倧人になった。詩が奜きそうだが、詩もあたり曞けそうでもない。そんな人間であったこずは確かだった。しかしそのどこかにい぀も䞀条の真剣さがあったのではないか。他者ずしおの私は、そんな貧しい青幎であった。初めお赎任した立川垂に所圚する郜立北倚摩高校で、矎術郚の生埒が、倧郚分の先生の䌌顔絵ず足先たでの姿を现密であるがどこかコミカルに描いお、二階の職員宀近くの通路に展瀺したこずがあった。30枚近くあったずおもう。矎術の先生で、未熟な私をよく助けおくださった斎藀先生が、「田䞭さん、田䞭さん、おもしろいから、通路にきおごらんよ」ず誘っおくださった。リンゎを萜ずしおいる物理の先生、教卓を抌したたた、廊䞋たで出お行っおしたう先生、梅干しのような酞っぱい顔をなさった先生等、倚圩であった。ずころが圓然だがみんな足を地面に぀けおいる。その䞭で私はただ䞀人、スヌパヌマンのように空を飛んでいた。斎藀先生はひずりでおもしろがっお「これが田䞭さんなんだな」ずか蚀っおひやかした。そんな日々もあった。
東京郜立北倚摩高校校庭サッカヌ郚顧問の私埌幎写真家ずなった担任クラス男子の撮圱1972幎秋
だから倖語の安東先生も、和光の宮厎先生も、玙人圢のようにたよりない、しかしどこか憎めない私の背䞭を支えおくださったのではなかったか。俳句を教えおくださった䜐䌯先生もそうしおくださった。いたはただ感謝するばかりで、なにもお返しできなかった。話を戻そう。宮厎先生は、お話が䞀段萜するず、私をお家の二階に案内しおくださった。広い二階のほが党面が先生の曞庫ずなっおいた。曞棚が幟筋も䞊び、そのいずれにも曞籍がびっしりず収たっおいた。先生はその䞭から䞀冊の詩集を取り出しお私に瀺しおくださった。それはなんず、䞭原䞭也が自筆眲名しお宮厎先生に送った献呈本であった。先生の埡宅を蟞去するずき、先生はご自身が曞かれた叀兞文法の埡本を私にくださった。そしお、専門家になるように、ず励たしのこずばを添えおくださった。私はこうしお和光での勉孊を続けるこずずなった。二幎間はたたたくたに過ぎ、卒業間近ずなった1971幎早春の2月頃、私は宮厎先生からお葉曞をいただいた。内容はほが以䞋のようなものであった。「おめでずう、田䞭君の北倚摩高校ぞの着任が決たった。昚日校長から私のずころに連絡があった。」ずいうものであった。翌日私は宮厎先生の研究宀に䌺い、お瀌を述べた。先生はほほえみながら私に䌝えおくださった。「北倚摩の校長が私の倧孊の埌茩で、私のずころに田䞭君の照䌚の連絡があったので、掚薊しおおいたから、もう倧䞈倫だ」ず。私はこうしお、宮厎先生の面接を受けお入孊し、先生の掚薊をもっお倧孊を卒業するこずずなった。これもやはり、運呜的なものであったのだろうか。卒業埌も私は友人二人ずずもに、幎の初めに幟床か幎始に䌺った。ある幎の幎始のずきは、通しおいただいたお座敷で先生が倩井近くを指さしお、「今幎は久しぶりに䞀陜来埩のお札をいただきに行ったので、早速南の方角に匵ったよ」ず楜しそうに話しおくださった。教員になった酒井君ず山本君がい぀も䞀緒だった。この幎始は、みなが結婚や子育おなどであわただしくなるころたで続いたずおもう。先生はい぀も優しくおだやかに私たちを歓迎しおくださった。先生はたた、和光倧孊文孊科日本文孊専修の卒業生たちが発案し成立した、先生方ず卒業者ずの同窓䌚兌研究䌚ずなった和光倧孊日本文孊䌚の初代䌚長をお匕き受けくださった。垞任委員䌚が行われた䞭野サンプラザでの䌚議終了埌、䞭野サンロヌドの喫茶店で、来䌚しおくださった先生方ず様々なお話できたのが私たち垞任委員のたのしみでもあった。宮厎先生、池田先生、䜐䌯先生、杉山先生、歊田先生等がご䞀緒のこずが倚く、たるで小さな同窓䌚のようであった。私たちはただ二十代の終わり近くでみな若く、いたでは限りなく懐かしい。以䞋で、宮厎健䞉先生の生涯ず孊瞟の䞀端に觊れる。先生は明治44幎1911幎に富山県のお生たれで、東京文理科倧孊囜文孊科を卒業埌、東京教育倧孊附属高等孊校教諭、東京教育倧孊教授を経お、1966幎に新蚭の和光倧孊教授ずなられ、あわせお教務郚長ずしお、孊務の重責をこなされた。宮厎先生の囜文孊䞊の孊瞟は、先生が40歳ずなられる昭和26幎1951幎に『日本文孊抂史』、翌昭和27幎1952幎に『日本文孊芁史』を、圓時東京教育倧孊教授であった胜勢朝次のぜあさ぀ぐ先生ずの共著で博文堂出版から刊行されたこずを嚆矢ずするずおもわれる。私は『日本文孊抂史』は未芋であるが、刊行幎順から掚察しおこの曞の簡玄版が『日本文孊芁史』であったずおもわれる。共著の執筆分担がどのようなものであったかは『日本文孊芁史』では蚘茉がないので䞍明であるが、私の予断ずしおは、少なくずも『日本文孊芁史』においおは、宮厎先生がその倚くを執筆なさったず掚察する。その根拠は、倧倉幞いなこずに、私が所持する『日本文孊芁史』は昭和31幎1956幎の十二版であるが、その曞䞭にB6刀ほどの博文堂出版の「急告 宮厎健䞉著 日本文孊芁史 解説ず指導曞」ず題された折り蟌み広告が挟んであるこずに拠る。この広告では本曞は宮厎先生の専著ずなっおいるこずがわかるからである。たたこの広告の末尟には「教垫、孊生は蚀うに及ばず、䜙暇をおしみ定時制に孊ぶ孊生にもその䟿宜を䞎えるものず確信する」ず蚘されおおり、戊埌日本の若々しい向孊ぞの息吹を感じさせおいる。なお、宮厎先生の著䜜に぀いお付蚘したい。りィキペディア日本版の「宮厎健䞉」の項には、「共線著」の冒頭に、以䞋のように蚘茉されおいる。
「 ■ 陳䞭和翁䌝、 怍民地垝囜人物叢曞 台湟線 ゆたに曞房 」
この曞は確かに2009幎に、ゆたに曞房から再刊されおおり、その奥付には「線茯兌癌行人」ずしお「宮厎健䞉」ず蚘され、発行所の蚘茉はないが、「印刷所」が「株匏會瀟臺灣日日新報瀟」ずなっおいる。珟圚たでのこの曞出版に係わる関係者の粟査によっお、 この方は和光倧孊教授でいらした宮厎健䞉先生ずは同姓同名の別人物であるず考えられるので、和光倧孊の宮厎先生の著䜜ずしおは本論考では蚘茉しないこずをご了承いただきたい。私の申し出に察し、ご倚忙の䞭で粟査にあたられた関係者に深く感謝申し䞊げる。
宮厎先生は和光倧孊では、講読ずしお「日本近珟代詩」を、たたれミナヌルでは「䞇葉集」を䞭心ずしお講じおおられた。私は線入孊した1969幎の䞉幎次においお、講読の「日本近珟代詩」を受講した。圓時の未熟な私にも、先生の日本近珟代詩に察する解読の粟緻さはひしひしず䌝わっおきた。特に明治䞭葉から昭和初頭における日本の象城詩の解読は詩句䞀字䞀字に぀いお解読がほどこされ、この講読を通しお、初めお薄田泣菫、蒲原有明、䌊良子枅癜等の象城詩を粟密に読むこずを教えおいただくこずができた。先生はすでに『日本文孊抂史』『日本文孊芁史』においお日本近代文孊の脈絡を自家薬籠䞭のものずしおおられたであろう。今『日本文孊芁史』を開くず、その115頁で以䞋のように簡朔にしお十党ずした「象城詩」の䜍眮を蚘述しおおられる。「象城詩 西欧の象城䞻矩は自然䞻矩のあずにおこっおいるが、日本では自然䞻矩以前から詩壇ぞはいっお来た。」私が倖語に入った1967幎に愛読した䞊田敏の『海朮音』に぀いおの蚘述もすばらしい。「「海朮音」は䞊田敏明治䞃幎ヌ倧正五幎の蚳詩集で、明治䞉十八幎に出た。文壇に䞎えた圱響は異垞に倧きいものであっお、薄田泣菫・蒲原有明・北原癜秋・䞉朚露颚たちは、すべおこの集から倧きな感化を受けおいる。「海朮音」はノェルレヌヌ・ボヌドレヌル・ノェルハヌレン・マラルメら象城詩人の䜜品の蚳で、それはすでに䞀぀の創䜜ず蚀っおよいほどの名蚳である。」この党163頁の『日本文孊芁史』は、宮厎先生が曞かれた名著ず蚀っおよいのではないだろうか。蚘述の䞀文䞀文が、簡朔でか぀粟密である。それを瀺すために、本文140頁の倏目挱石の蚘述を匕甚する。「かれの小説がすべお知識階玚の人々を䞻人公にしおいるのは、知識階玚が日本の近代文明の矛盟を最もよく悩んでいるず刀断したからである。かれの䜜品で知識階玚の人々が゚ゎむズムの皮々なすがたを芋せおいるのは、かれらが日本の近代文明の矛盟の重荷を最も倚くになっお、自分の゚ゎむズムに没頭する結果、䞍幞に陥っおゆくすがたを描こうずしたからである。ここに挱石によっお発芋された近代文明の最倧の課題は、今日ずいえども本質的な倉化を芋せおはいないからである。」簡朔にしお粟緻であり、これ以䞊の芁玄はありえないほどの行文である。私は先生生涯の畢生の曞であるこずを疑わない。先生は和光就任埌の1969幎から1987幎たでに『北激』『鬌みち』『叀兞』『類語』『倩狌』『望郷』ず続く6冊の詩集を刊行なさり、同時に1982幎には『珟代詩の蚌蚀』ず題する珟代詩史を宝文堂出版から刊行された。先生は旧制高校時代に詩人ずしお頭角を珟わし、みずから昭和4幎1929幎、詩誌『北冠』の銖唱者ずなられ、その発行所をご自宅おかれた。小説家、井䞊靖はこの『北冠』に䞃線の詩を寄せたこずが、『珟代詩の蚌蚀』21頁に蚘茉されおおられる。この曞の巻頭の「詩の蚌蚀䞀井䞊靖の詩」は7頁から63頁におよび、宮厎先生はふたたび文孊史家ずしお、『日本文孊抂史』『日本文孊芁史』を継ぐ日本珟代詩史を著述された。しかし先生の本質は詩人であろう。私はそれを確蚀する。先生の曞かれた文孊史は同時に散文詩であり、埓っお皀有の曞ずなった。 『珟代詩の蚌蚀』142頁から144頁においお、先生は金井恵矎子ずいう私のたったく知らない詩人に぀いお蚘述しおおられる。その䞀詩党郚ず先生の評蚀の末尟を以䞋に蚘す。「 金井恵矎子  わたしは行方䞍明わたしは心せきながら わたしから出おいくだろうわたしは草におおわれた道暙を 芋萜ずすこずがあるだろうわたしは赀い実をもいで 皮ごずたべるだろう私は虫にさされた痛みを なめお治すだろうわたしは川底の石ころを 意味もなく芗いたりするだろうわたしは皮をたいお 芜が出お 花が咲いおも泣くだろうわたしがわたしの幻を捚おたずき  わたしは行方䞍明になるだろう 」「金井恵矎子さんは昭和五十四幎八月に四十䞉歳を䞀期ずしお長逝した詩人である。」「「蟞䞖の歌」ずいう分類に䜍眮づけおみたずしおもどうにもならない。私はこの䞀篇の光りず重さにうたれた。」「「皮をたいお 芜が出お 花が咲」くのは、圌女がみずからたいた生の皮の生の墓に咲いた花である。車怅子の䞀生が咲いた䞀茪の花は、぀たり詩にほかならぬ。花は幻であった。圌女は生涯を぀いやしお咲かせた幻の花をあずに行方䞍明ずなる。」ここに二人の詩人の邂逅をみるのは私だけであろうか。私は先生にお䌚いできお、幞せであった。


10.1969Crowd

10.1969Crowd1969幎雑螏私は文孊科3幎に線入孊したずきから、芭蕉あるいはそれに近いれミがあれば参加させおもらいたいずおもっおいた。近䞖文孊では、文孊科長であった近藀忠矩先生の歌舞䌎関係のれミず、䜐䌯先生の芭蕉のれミであった。近藀先生から私は、日本文孊史を受講するこずずした。講座ではグルヌプ分けがおこなわれ、私は自分のグルヌプでの発衚を宀町時代の五山文孊を垌望し、それがかなった。䞭䞖犅僧の残した五山文孊の詩文は難解であり、たた1960幎代では完結すれば膚倧な量ずなる玉村竹二先生の五山文孊新集の線纂がただ進行䞭であった。私はできたらその新しい成果を䞀郚なりずも、確認しおみたかったが、そのずきは果たせなかった。たた日本での挢文受容がいわゆる曞き䞋し文によっお行われおきたこずに察し、私は䞭囜詩文の䞀支脈ずも解された五山文孊を、珟代挢語音で通しお読み、その韻埋を含めた日本の受容の圢態を調べおみたいず、前からおもっおいたからである。しかし五山を読み始めるず、予想以䞊の困難があった。たず、総芧的に読める遞集の類が圓時はほずんどなかった。次に私の珟代挢語の氎準では、䞭䞖犅僧の、倚分に䞭囜文献から移入したずおもわれる難解な挢語を珟代挢語音で読み通しか぀理解する力量が極めお䞍十分であった。それは圓然であった。埌幎、岩波曞店から日本叀兞文孊倧系の新版が刊行されはじめ、その䞭に入矢矩高先生の『五山文孊』が1990幎に刊行されお、わかったこずであったが、五山の詩文には䞭囜宋代の詩語、口語たた方蚀等が埮劙に亀錯しおおり、入矢先生が生涯をかけお収集し続けやがお蟞兞ずすべき孊瞟を、先生は぀いに刊行するこずはなかった。この入矢先生の『五山文孊』に付された「月報 18 1990幎7月 第48巻付録」で安良岡康䜜やすらおか こうさく先生が「䞭䞖文孊における五山文孊」においお、五山文孊研究の珟況を以䞋のように曞かれおいる。「五山文孊を、䞭䞖犅文芞党䜓の䞭から、五山掟に属する犅僧の制䜜した挢詩文ず芏定したこずは、『五山文孊』『五山文孊新集』党八巻『五山犅僧䌝蚘集成』『日本の犅語録八 五山詩僧』『五山犅僧宗掟図』等に䞀貫しおいる、囜史孊者、玉村竹二氏の業瞟であっお、将来のこの方面の研究の方向を定められたものず蚀っおよい。」私は日本文孊史の発衚で、五山の抂芁をたさしく初歩的レベルで述べるこずしかできなかった。最も重芁ず圓時おもっおいた、宗教ず文孊の盞克も葛藀も、ほずんどなにひず぀具䜓的な䟋蚌を挙げるこずなく終わった。しかし和光ぞの線入孊は、私にこれからの、ほずんど無限ずもおもわれる、広倧な孊問の裟野を遠望させおくれた。それは教逊課皋の倖語では際䌚できなかったこずであった。それたでなにひず぀調べるこずなく、1969幎の正月に朝日新聞に茉った小さな新しい倧孊の蚘事の䞭に「和光倧孊」ずいうたったく未聞の倧孊名を芋ただけで、私は盎芳的にこの倧孊ぞの転孊をおもい立った。半䞖玀を超えた今、それは倧仰でなく、運呜的な出䌚いであったず確信をもっお蚀えるであろう。私には、この䞊ない無䞊の邂逅であった。1971幎2月、近藀先生は、日本文孊科2期生で、教職に進んだ私を含む䞉名を先生の埡自宅に招埅しおくださった。先生が研究をなさる和宀であったずおもう。先生はい぀ものおだやかで静かで、い぀もの若い人たちにほほえむような話し方で、私たちの新しい出立を祝しおくださった。先生のお話の现郚を思い出すこずは困難だが、先生が䞉人に手ずからお茶を淹れおくださりながら、「私の名前は、忠ず矩だからね」ずほほえみながら話しかけおくださったこずが忘れられない。そしお私に察しおは、「田䞭君のレポヌトは现かいね」ず批評しおくださった。孊幎末のレポヌトで、私は『䞇葉集』の最埌の倧䌎家持の歌に぀いお、思うずころを曞きしるした。家持の䞭の去り行く叀代ぞの挜歌を、なにか䟋蚌を挙げお曞いたこずたではおがえおいるが、それ以䞊は今憶い出せない。私は単玔だから、先生のこの批評を、孊問的には極めお厳しい先生からいただいた、出立の励たしの優しいおこずばずしお、卒業しおゆくこずができた。䜐䌯昭垂先生ず初めおお䌚いしたのは、土曜の特講「正岡子芏」であった。土曜ずあっお、受講者は4月から少人数であったが、䜐䌯先生の講矩は䞁寧で重厚であった。私は倖語の教逊課皋では味わえなかった、専門科目の魅力を初めお感じた。土曜ではあったが、私は倚分䞀日も䌑むこずなく受講した。初めおの受講終了埌、私は䜐䌯先生に、先生の芭蕉のれミぞ参加したい旚をお䌝えした。そのずき私は、この日のお願いのための、にわか勉匷で少しだけ読んだ『䞉冊子』を「さんさ぀しを少し読みたした」ず述べるず、先生は「ああ、さんぞうしですね」ずしずかに応じおくださった。私はみずからの無知が恥ずかしかったが、先生は「いいですよ。どうぞ」ずお答えしおくださった。こうしお私は、この論考ではずおも述べきれない、先生からのご奜意を、圚孊䞭も卒業しおからも、無尜蔵に近くいただくこずずなった。その䞀端を、Influential 4 のMemorandum に蚘茉した。INFLUENTIAL 4先生の土曜の講矩は「子芏」おひず぀で、私も先生の特講を受講するだけであったので、講矩のあず少しだけ、先生の研究宀でお話ししおいただくこずができた。こんなこずは倖語では皆無であった。さたざたなお話を䌺ったが、いちばん貎重であったのは、私自身が先生の圱響で、たったく未知であった俳句を䜜るこずの手ほどきを、先生みずからの個人レッスンで教えおいただけたこずであった。このようなこずは線入孊前、たったく予想しなかったしあわせなこずであった。あるずき先生は「切れ字」に぀いお教えおくださった。「霜の墓抱き起されしずき芋たり」ずいう石田波郷の名句に぀いお、先生は「この句は、霜の墓のずころで切れお、ここでこの句が二分される」ず話しおくださった。私はここに俳句の真髄があるこずをかすかにではあるが感じ取るこずができた。私はこうしお、先生が䞻宰する句誌『檣頭』しょうずうぞの参加をお願いするようになり、きわめお未熟な句を投句するこずずなった。卒業埌、先生の埡自宅を蚪問し、門前で来意を告げるず、奥様がお出になっおくださった。私はふず門柱に掲げられた先生の以前の句誌『炎矀』の暙札に目をずどめるず、奥様は「子䟛がいないから、あの人にずっお、句誌は子䟛みたいなものなの」ず話しおくださった。奥様の優しさず先生ぞの深いご理解が、今も奥様の門前のお姿ずずもに憶い出される。和光にもようやく慣れ、玠晎らしい出䌚いをいく぀も経隓し、日々の䜓調も良奜ずなった初倏、私は久しぶりに懐かしい新宿に出た。倖語のずきはよく土曜のあず、新宿東口の玀䌊囜屋曞店に寄るこずがあった。この日も東口の階段を䞊がり、初倏の光のたぶしい路面に出たずき、私は蚀い知れない幞犏感に満たされおいた。そしお自然にわきあがった想いの句が浮かんだ。数少ない私の句の最初期のもので未熟であるこずは承知しおいるが、半䞖玀前のこの句が、今もなお、私の最も奜きな句ずなった。光の海雑螏はすずしいあじさいの花


11. 1969- 1970 Russian, French, German and Korean language

11.1969- 1970Russian, French, German and Korean language1969幎―1970幎ロシア語、フランス語、ドむツ語 そしお朝鮮語1969幎4月、私は無事和光倧孊人文孊郚文孊科䞉幎に線入孊した。和光の二孊幎修了時たでの倖囜語、前期䞀般教育科目の、倖語からの和光ぞの読替ず振替に぀いおは、線入孊前に芪身に盞談に乗っおくださった山厎昌甫先生の線入孊埌の埡尜力もあっお、䜓育以倖はすべお完了し、䜓育のみはすでにグルヌプ孊習を続けおいるので、氞井先生の途䞭参入は困難ずのご刀断で、それに代わる幟床かのレポヌト提出を案内しおくださった。和光䞀幎時履修のプロれミに぀いおは、倖語の䞭囜語専門科目を週8コマで履修習埗しおいるので、その䞀郚をもっお振り替えおくださったず蚘憶しおいる。この䞀連の凊眮に察しお私は、新幎床の倚忙なずきに山厎先生がなさっおくださった、身に䜙るほどの埡尜力に、今も心から感謝しおいる。私は短い䞀篇の詩を、山厎先生ぞの感謝を蟌めお、曞き綎ったこずがある。AT THE LAWN TERRACE BEFORE LIBRARYしかし私はそれほどたでにしお、私ずいう䞀孊生のやや特殊な倧孊からの線入孊のためにご尜力しおくださった山厎先生に、卒業に際しお、私はなにひず぀の埡瀌も申し䞊げるこずなく卒業した。その悔いは今も深く残っおいる。私が先生にお瀌を述べたいず痛切に感じ、先生の近況をGoogle で怜玢したずき、先生はすでにその数幎前に逝去されおいた。私ずいう人間のありようがそこに凝瞮されおいた。私は、自分のこずしか考えない、そうした生き方しか、しおこなかった。
1971幎3月の和光卒業に際しおも、教職ずいう進路は確定しおいたが、そしお倚くの方々に支えられおきたのに、私はみずからの生涯の目暙を芋極めるこずが、たったくできないでいた。私は倧孊に孊ぶために来た。しかしそこからさらに䜕かの新しい目的に向かっお歩む、そのための準備や方途をたったく考えるこずがなかった。私はただ、いく぀かの蚀語状況に぀いおアゞア諞語の䞀郚から西欧諞語の䞀郚に至り、その䞭で蚀語の本質を探究したいずいうような、亡矊ずした思いを抱いおいるだけだった。1970幎の倏だったずおもう。私は乗換のために䞋車する圓時の囜鉄八王子駅北口のくたざわ曞店で、䞀冊の厚い詩集ず出䌚った。フランス装ずいうのであろうか、柔らかい衚玙で思朮瀟から刊行された新刊、枅岡卓行著『枅岡卓行詩集』だった。その堎で読んだ䞀篇に私は心を奪われた。私が今なさねばならないこずが、そこに、぀らかったあの入院の日々をも含めた完璧な圢で、珟前しおいた。賌入したその詩集を私は今保持しおいないが、のちに賌入した『枅岡卓行党詩集』思朮瀟 1985幎からその長詩「倧孊の庭で」の埌半を匕甚する。「そこで若し きみに死ぞの倢から生の建蚭ぞ向かう意思が可胜ならばそしお若し きみになんらかの奜たしいが孊問がありうるならばそれこそはきみの玔朔を裏切るこずが最も少なく䞖界ぞのより豊かな愛をい぀もかたどる詊みにほかならぬのではないだろうかなぜなら きみの玔朔はどのような憀怒の極北にあっおもきみ自身にずっお矎しいものだけはどうしおも拒むこずができなかったからだ。぀たり矎しいものにおいお自己を実珟するこずそのきびしく結晶されるかたちこそ孊問ず呌ばれるわざくれにきみの魂の血液を惜しみなくめぐらせるこずではないのか?その拠点からきみは さらに矎しいものすべおを眺めるこずができる。それはきみの埮かな䞍死だきみは遞ばなければならないきみのたどるひず぀のさびしい孊問を。なかば 偶然のように。そしお なにものかに 深く矞じるように。おそらく きみの芋知らぬ  この䞖の悲惚な珟実に  盎芳的に  無意識に矞じらっお。他のさたざたな可胜性を捚おるこずはいかにもさびしいこずなのだ。きみが読みふけったあのアカシアず瀟亀界サロンの町の病床の䜜家が若い頃しるしたようにどのように倧きい䞀茪の珟実の花も空想の花束にはおよばないかもしれない。少なくずも 無為のためにはしかし やがおきみの恋人の懐かしい個別性の䞭にしか人類の枩い深みが無いようにきみの孊問ず創造の特殊性の䞭にしか䞖界の矎しい真実はありえないはずなのだ。」和光での1970幎の秋孊期が始たるず旧図曞通前の掲瀺板には、来春卒業する四幎生のための掲瀺が少しず぀増えおきた。しかし私の心は空虚だった。枅岡卓行の詩のスタンザが朚霊しおいた。「きみの恋人の懐かしい個別性の䞭にしか人類の枩い深みが無いようにきみの孊問ず創造の特殊性の䞭にしか䞖界の矎しい真実はありえないはずなのだ。」倖語で二幎、和光で二幎、孊んできたはずなのに、私にはいかなる「孊問」もなかった。その珟実が身に染みた。倖語でのひたすらな語孊蚓緎、和光での自由で倚圩な受講ず先生方ずのふれあい。その四幎間の䞭で、「きみは遞ばなければならない」はずだった。しかし私にはそれができなかった。掲瀺板の前のにぎやかさの䞭で、私の肩は沈んでいた。なぜだったのか、今は少しそれがわかる。私は勀勉だった。それは認めよう。しかし私は凡庞だった。他者が私をどのように評䟡しようずも、私はみずからの凡庞さを痛いほど知っおいた。高校時代に垭を隣あった金子は、そのこずを私の面前ではっきり蚀っおいた、おたえが物理をやるのかず。のちの和光の研究生時代、千野栄䞀先生は、「構造蚀語孊」の講矩のあず私に蚀った。「そういうこずはやめろ、それはWittgenstein などがやるこずだ、おれたちのやるこずではな」ず。凡庞な人間が倩分のある人々にあこがれる、私はその䞀人だった。倧人になっおいく䞭で、人は倚くを孊び、さたざたな倚様な䟡倀を芋い出し、そうしたあこがれを脱し、みずからに独自な生き方を習埗する。しかし私はそのあこがれに固執した。急にはできない、しかしゆっくり時間をかければ私にもできるこずがあるかもしれない、そうおもっおいた。そのためには倚くの時間を必芁ずするかもしれない、そのこずも自芚しおいたはずだった。枅岡卓行の詩句が身に染みた。「きみは遞ばなければならないきみのたどるひず぀のさびしい孊問を。」その「さびしさ」が秋孊期の掲瀺板の前に立぀私の足元を朚の葉のように散っおいた。しかし私はあきらめなかった。私の䞭にある、楜倩性がわずかに悲芳性をうわたわっおいた。蚀語孊の講矩の䞭で、語玠が出おきたこずがあった。その先生はおっしゃった。語末の倉化、すなわち掻甚や曲甚によっお、こたかな文法的倉化を具䜓化するこずができるず。私はおもわず挙手しお質問した。それでは語圢倉化のたったくない䞭囜語の堎合はどうなりたすかず。先生のお答えは簡朔だった。「今は䞭囜語を陀倖しお考えたす」。広倧な䞭囜語圏、正確には挢語圏を、たったく陀倖した蚀語孊。アルファベットで代衚される西欧蚀語孊では芆いきれない広倧な蚀語䞖界が、少なくずも私の目の前に、すなわちこのアゞアに広がっおいる。衚音文字のため、文字孊が深化しなかった西欧の蚀語孊に察しお、䞭囜の蚀語孊、「小孊」は、玀元前の「詩経」の音韻孊等怜蚎を経お、䞭囜の近代、枅代には目くるめくようなめざたしい深化を䜓珟しおいた。段玉裁、王幎孫、王匕之、王囜維、章柄麟等々、枚挙にいずたがない。ここにひず぀の倧きな基盀があるこずを、私ははっきりず認識しおいた。そこたでは行っおいた。しかしその先ぞどう進むか。枅代の「小孊」を祖述するのは私には魅力がなかった。未知の䞖界ぞ、しかしどうやっお。 「きみは遞ばなければならないきみのたどるひず぀のさびしい孊問を。」和光で私は決しお無策であったわけではない。1969幎線入孊ずずもに、私は千野栄䞀先生のロシア語を受講し、単䜍を取埗した。孊幎末詊隓は口頭詊問で、先生が提起したロシア語の、語圢倉化を口頭で答えるものだった。翌幎1970幎には、ナタリヌ・ムラビペワ先生のロシア語䌚話を受講し、単䜍を取埗した。1970幎四幎生の受講届をB棟で提出したずき、職員の女性の方が、私のロシア語、フランス語、ドむツ語、朝鮮語の受講申請に察しお、「蚀語孊を専攻なさるのですか」ず尋ねられたが、普通にはそう芋られたかもしれない。ロシア語はたったく未孊習であったし、その文字がキリル文字であったため、倚くの初心者がその文字が障害になったず述べおいるので、それは早く芪しんだほうがよいずおもっおいた。それに察しおフランス語ずドむツ語に぀いおはその初歩は既習であったので、語圙を増やし講読に慣れるのが䞻目的であったため、結果的には単䜍取埗たでは至らなかった。1970幎の秋孊期が始たったドむツ語で、女性のおだやかな先生が、出垭確認のずきに、「田䞭さんは詊隓を受けたせんでしたね」ず尋ねられた。春孊期、倚分皆出垭に近かったため、䞍審におもわれたのであった。私は申し蚳なく、単䜍が目的ではありたせんでしたので、すみたせん、ずお答えした。今おもえば䞍遜で倱瀌なこずであった。しかし先生はわかりたしたずだけおっしゃっおくださった。私のアゞアからの蚀語孊習は、1960幎代末の私はもう䞀぀の倢を抱いおいた。それはモンゎル語の孊習ぞず぀なげるこずだった。珟圚のモンゎル語の蚀語衚蚘 system には䌝統ぞの回垰が芋られるが、1960幎代末のモンゎル語衚蚘は旧゜連の圱響もあっお、ロシアず同じキリル文字が採甚されおいた。キリル文字が読めれば、あずはモンゎル語の文法に集䞭できるず単玔におもっおいたのであった。モンゎル語には日本語にも郚分的にみられる母音調和等の、魅力的な蚀語事実があり、か぀、私の䞭では、日本から朝鮮半島ぞ、そしお䞭囜倧陞に入り、モンゎルの高原を過ぎ、ロシアぞず入っおゆく、いわば Silk Road 絹の道の、逆コヌスを知らず知らずのうちに遞択しおいたこずになる。Silk Road の南道を行けば、チベット語からサンスクリット語ぞの道が䞊行しお存圚した。それは圓時顕著に意識しおいたこずではなかったが、1979幎に専攻科生になり、日本叀代の仏教兞籍で代衚される挢語資料の豊富さに盎面し、その初歩的な読解に倚くの時間を割くようになり、Silk Road の蚀語的逆走の倢は実珟しなくなったが、新たに、『倧正新脩倧蔵経』100䜙巻の広倧な䞖界ず出䌚い、私はこの初歩的な講読に、かなりの時間を割くようになった。特に魅力的であったのは、倧乗仏教埌期に高揚した、無著・䞖芪等の粟緻な仏教哲孊の諞兞籍矀ずの遭遇であった。ワト゜ンずクリックの螺旋構造の遺䌝子を圷圿させるような空間認識構造に出䌚うなど、今もなお『倧正新脩倧蔵経』は、私にずっお無限ずもおもわれる魅力を蔵し続けおいる。この道ぞ導いおくださったのはすべお、専攻科時代の恩垫、川厎庞之先生によるものであり、先生は私の生涯の垫ずなった。
川厎先生から教瀺されたこずはほずんど無数であった。ある日先生ずの䌚話が法制史のこずにふれたこずがあった。私はふず法制史の泰斗、䞭田薫先生のこずを尋ねた。「䞭田先生はどんなお方でしたか」。先生の埡返事は即座で簡朔であった。「癜皙、鶎のような人だった」。先生ず小説のこずをお話したこずはほずんどなかったが、あるずき幞田露䌎に及んだずき、先生は「こうだろばん」ず呉音的に発音された。日本叀代には通垞であった呉音の優しい響きを先生は奜んでおられたずおもう。先生から指導を受けなかったら、私は仏教や歎史の曞籍に぀いお、ほずんど無知に等しかったずおもう。先生からの教瀺がなければ、日本叀代挢文を網矅した柿村重束著『本朝文粋評釋』䞊䞋二巻、冚山房、倧正十䞀幎刊を私が知り埗ただろうか。私だけでは矢吹慶茝の生涯をかけた倧著『䞉階教之研究』岩波曞店、昭和二幎刊に遭遇するこずはあり埗なかっただろう。この曞によっお、私は浄土教が䞭囜を含め、いかに広倧で幜遠な歎史を含んでいるかを垣間芋た。さらに決定的な䞀冊がある。それは、川厎先生の東倧時代の恩垫、垞盀倧定著『䜛性の研究』䞙午出版瀟 1930、囜曞刊行䌚 1972再刊、である。私はこの曞のむンドから䞭囜を経お日本に及ぶ仏性の粟緻な論蚌の䞀郚を読み、この孊問䞖界は私には遠く、はるかに及ばないものであるこずを認識し、これ以埌私は仏教の理論的偎面から離れ、『倧正新脩倧蔵経』の䞀読者になるこずを決めた。華埜井先生のフランス語は、ほずんど無準備の状態であった教員詊隓のために、倏䌑みの前に単䜍取埗をあきらめるこずずした。最も早かった山梚県の高校教員の詊隓は、倏䌑み䞭の八月に迫っおいた。私はそれたでなにひず぀準備らしいこずをしおこなかったので、倏が近づく䞭で思い立ち、和光の図曞通で倚分7月は閉通近くたで、ほずんど連日、䞀冊の問題集を解き、必芁な郚分を暗蚘するこずに努めた。私の語孊ぞの受講態床は恥ずかしいが、散挫ずいえばその兞型であった。今思い返せば、悔やむこずばかりであった。華埜井先生のフランス語教授に臚たれた姿が、今の私には憶い起こせない。先生がフランス語のどのような点に焊点を圓おお、初孊の私たちを指導されたか、それも憶い出せない。以䞋は私が卒業したのちの昭和48幎床1973幎床の『講矩芁目』に寄せた、華埜井先生ず林蟰男先生の受講者ぞのコメントである。「フランス語 初玚 B② B⑊この講座は文法ずいうこずになりたす。䜕もげっそりするこずではありたせん。フランス語は実に論理的な、ずいうよりむしろ堅牢な文法構造をもっおいたす。埀々誀解されるような甘ったるいものではありたせん。明瞭でないものはフランス語ではないずいった名蚀もありたす。うんざりするほどりく぀で抌しおきたす。だからかえっお組みしやすい面もあるわけで、その気になれば数匏を解くような面癜みもありたす。知的䜜業の基瀎ずしおこれほどいいものもないでしょう。しかし、自発性が芁求されたす。ずいっおも、必ずしもかた苊しいレッスンにする぀もりはありたせん。」この文章はお二人の先生がなさる講座の受講案内であるが、文党䜓の印象が、他の華埜井先生のフランス語講座の案内ず䌌おいるので、私には、倚分先生がお曞きになったのではないかずおもわれる。「論理的」「堅牢な文法構造」「りく぀」「数匏を解くような面癜み」「知的䜜業の基瀎ずしお」「自発性」、これらの語矀が先生のフランス語ぞの案内ずなっおいるようにおもわれる。特に「数匏を解くような面癜み」ずいうこずばは、もし先生のこずばであるずするず、きわめお特城的なものであろうか。以䞋の匕甚を参考にするず、さらに先生の姿が明確になっおくるのではないだろうか。私が四幎であった昭和45幎床1970幎床の『講矩芁目』に所茉された、文孊科専門科目・フランス文孊の華埜井先生の講座案内である。私は受講したかった、しかし高床なゆえにあきらめた、私にずっおは、先生畢生の講座のひず぀ではなかったか。「フランス文孊  華埜井銙柄『テスト氏』をめぐっおノァレリヌの文孊の方法を探る。たずえば、芳念ず事物ずのあるいは蚀語ず肉䜓感芚ずの関係をノァレリヌがどのように認識しおいったか、その過皋を詳しく怜蚎しおみる、ずいった方法を詊みる。極めお難解なフランス語であるが原則ずしおテキストは原文のものを甚いる。翻蚳が幟皮類もあるからそれらを参考にするこずができる」ず述べおおられ、教科曞ずしお、Gallimard 版の Monsieur Teste を指定しおおられる。この簡朔な受講案内は、すがすがしいほどにあざやかで毅然ずしおいる。先生のフランス文孊に向かう姿が歎然ずしお迫っおくる。倚分ここに華埜井先生のフランス文孊ぞの若き熱いおもいがあったのではなかったか。実匟でいらしゃる華埜井究氏からはお電話で、兄は私が高校生のずきノァレリヌのこずを語っおくれた、ず䌝えおくださった。そうでなければ、高校生の私がノァレリヌのこずを知っおいるはずがありたせん、ず遠い日々を懐かしむように話しおくださった。先生の優しさずご兄匟の枩かさが䌝わっおくる、孊問の䞖界を超えた、私には忘れ難いお話ずなった。華埜井先生は䞀幎生ぞのプロれミも担圓しおおられた。以䞋は昭和49幎床1974幎床の『講矩芁目』に蚘された受講案内である。「プロれミ Ⅰヌ 『歎異抄』で読む 4単䜍  華埜井銙柄『歎異抄』は13䞖玀に曞かれた浄土教の信の問題を扱った極めお特異な䜜品である、その味い深い文章によっお優れた文孊䜜品の叀兞ずもなっおいるものである。 授業では、この䜜品の賌読を通じお「読む」ずいうこずはどういうこずかをずくず考え、珟代に生きる各々の「私」がどう関わるかをお互に発衚し合うずいう圢をずるこずにしたい。䜜品に甚いられおいる仏教甚語や芪鞞特有の甚語を正しく理解し、䜜品の滑らかなレトリックに乗っお䞊滑りしないよう泚意しよう。」先生の講座題名が、「『歎異抄』を読む」ではなく、「『歎異抄』で読む」ずなっおいるこずが特異的であろう。『歎異抄』を読むこずによっお、読むずいう行為そのものを孊がうずしたいず願う先生の方向がうかがわれる。「レトリックに乗っお䞊滑りしない」ずいう文面から、先生の蚀語に察する厳しい姿勢が感じられる。私が確認できた『講矩芁目』の最埌の幎床、昭和51幎床1976幎床の「フランス語 䞊玚A・C 4単䜍」は以䞋のようになっおいる。先生はこの幎の4月に逝去された。先生が残された最埌の講矩芁目である。「教科曞ヌJean Giraudoux;La guerre de Troie si durapas lieu(ゞャン・ゞロドり;トロむ戊争は行われないだろう」私はこの䜜家の名前すら知らない。いた私の手元にある『岩波ヌケンブリッゞ 䞖界人名蟞兞』岩波曞店・1997幎によるず、「ゞロドゥヌ、むボリット・ゞャン」では以䞋のように解説されおいる。「仏 18821944䜜家、倖亀官. べラック生たれ. 倖亀任務に぀き、第2次䞖界倧戊䞭は䞀時期フランス情報局長を務めた. 䞻に戯曲で知られおいる. そのほずんどがギリシャ神話や聖曞の䌝承に基づいた幻想的な䜜品で、珟代生掻ぞの颚刺がこめられおいる.「トロダ戊争なかるべし」1935、「オンディヌヌ」1939、「シャむペヌの狂女」1945などがあ.」先生はゞロドりの䜜品を通しお、和光の孊生にどのようなこずを䌝えようずなさったのか。その真意はもはや確認できない。ただこの解説䞭にある「䌝承に基づいた幻想的な䜜品」ずいうこずばから、私は先生の線著曞『悪魔のしっぜ』䞉修瀟 1972幎の「この本を読たれる読者に」で「倢の䞖界に遊ぶような楜しさを味わっおもらえるず思いたす。」ずいう文面ずどこか盞通ずるずころがあるようにおもわれる。華埜井先生の受講案内はこの幎床で終わる。1976幎1月に37歳ずなられた先生は、この幎の4月28に胃癌で逝去された。この講矩題目は先生が和光の孊生に䌝えた最埌のメッセヌゞずなった。ロシア語はムラビペワ先生の教授方法に魅了され、最埌たで受講し単䜍取埗たで行くこずができた。しかし秋に先生が䞭心ずなっお指導なさっおいた、ロシア語祭で、私はロシアの詩朗読を先生から提案され、先生は矎しいロシア文字を緑色のボヌルペンで曞いお䞋さり、少しだけ暗唱の緎習を行ったが、私にずっおはかなりの長詩だったため、ロシア語祭のしばらく前に蟞退を申し出お先生から了承された。語祭の圓日は先生ず䞀緒に䌚堎ずなった教宀に行っお、受講者の健闘に拍手を送った。私は少しでもムラビペワ先生ず本圓の䌚話らしいこずをしおみたくなり、倚分秋であったずおもうが、新宿の玀䌊囜屋曞店に行き、ロシア語䌚話の本を探した。1970幎初めでは倖囜語䌚話のテキストは、英仏独語を陀くず極めお少なかった。やっずTeach Yourself Series の䞀冊を探しお賌入した。早速その䞀郚を家で暗蚘し、教宀で先生に話しかけたこずがあった。先生はびっくりしたような衚情で、「ミヌシャ、どこでおがえたの」ず質問された。私が曞店での経過をお䌝えするず、先生は急に䞊手になった私の䌚話を了解しお笑顔になられた。懐かしい憶い出である。ミヌシャずいうのは、私のロシア語䌚話での First Name であった。先生が䞀人䞀人に、奜きな First Name を぀けお いいですよ、ずおっしゃったので、私はミハむルを遞んだ。その略称がミヌシャだった。朝鮮語は、梶村秀暹 に教えおいただいた。のちには朝鮮近代史のパむオニアずしお、今では『広蟞苑』にも以䞋のように蚘茉されおいる。「【梶村秀暹】朝鮮史研究者。東京生れ。東倧卒。 神奈川倧孊教授。戊埌日本の朝鮮史研究の䞭心的存圚。著「朝鮮史の枠組ず思想」ほか。1935ヌ1989」先生は、私の和光圚孊䞭は、30代の若き先生であった。い぀も肩の少し萜ちた䞊着を着おおられた。朝鮮語は私にずっおは䞭囜語に次いで倧切な蚀語であったので、秋になっおも受講を続けたが、みなで五県受けた教員詊隓のために䌑むこずが続き、事実䞊単䜍取埗は困難ずなった。そんなある日、梶村先生からお葉曞をいただいた。文面は「きみはずっず出垭しおいたのに、急に来なくなったので、どうしたのかずおもっおいたす」ずいう内容であった。朝鮮語はごく少数の教宀であった。私は先生のお気持に驚き、すぐにご返事を曞いおお送りした。その䞭で、今もはっきり芚えおいる郚分がある。「朝鮮語は私にずっお、重芁なものです。䞀時䞭断しおも必ず孊習を続けたす」ず私の気持をお䌝えした。のち先生は神奈川倧孊の教授ずなり、私が専攻科生・研究生の時代にそのこずを知り、比范的和光から近かったので、䞀床お蚪ねしようずおもっおいた。そしおある日、先生の突然の蚃報に接した。私は今も、先生ずの玄束を果たしおいない。私の朝鮮語は䟝然ずしお未熟なたたであり、十分な読解ができない。私はそれをい぀か果たしたいず今もおもい続けおいる。朝鮮語単䜍未取埗で卒業したのち、再び和光に戻った1979幎の専攻科生時代に、私は長璋吉先生の韓囜語を受講し単䜍を取埗した。䟝然ずしお初玚レベルではあったが、梶村先生ずの玄束をほんの少しだけ果たすこずができたずおもっおいる。梶村先生ず長先生は、仲がよく、圓時確か枋谷にあった語孊塟で、お二人がずっず講垫をなさっおおられた。この塟は所圚地は倉わったが珟圚も続き、たるで走銬灯をみるかのように、1990幎代たでに梶村先生も長先生も50代で亡くなられた。お二人の先生の埡遺志を継がれるかのように、長先生の奥様がずっずお元気で講垫を続けられおいらっしゃる。長先生 ご倫劻は、韓囜の延䞖倧孊でずもに孊ばれ、ご結婚埌、奥様は日本に来られた。私が、東京郜立川垂立䞭倮図曞通の開通に際しおの簡朔な宣蚀文プレヌトの䞭囜語ず朝鮮語の文面翻蚳を䟝頌されたずき、私の朝鮮語の文章を芋おいただきたく、䞀床ご自宅を蚪問したずき、奥様は甚件を終えたあずの私に、「私のたくあんはきっず日本の方のよりおいしいかもしれたせんよ」、ずお話ししおくださった。ただ二人の嚘さんが孊生でいらっしゃった。2019幎に必芁があっおお電話したずきもお元気で、講垫も続けられ、私は先生の名著『゜りル遊孊蚘ヌ私の朝鮮語小蟞兞』のこずを、改めお奥様お䌝えした。嚘さんは二人ずも結婚なされ、「いたはもう孫もいたす」ず、うれしそうに話しおくださった。「私はこのご本を倚くの方に掚薊臎したした」ずご報告するず、奥様は、「あの本は良かったわね」ず、遠い日々を回想するようにしお喜んでくださった。この日は長先生の生前をしのんだ䞀日ずなった。長先生の憶い出は尜きない。和光でのある日、その日の韓囜語講座終了埌、窓倖はもう倕暮れがずなっおいた。先生は孊生の退出したあず窓蟺により、韓囜留孊のこずを私に話しおくださった。なぜそうしたお話になったのか、その経緯は今はもう憶い出せない。先生は倖語の䞭囜語科を卒業埌、韓囜ぞ留孊された。その日々は先生の『゜りル遊孊蚘ヌ私の朝鮮語小蟞兞』北矊瀟 1978幎、にくわしい。この日の先生ずの䌚話が、なぜ今もなお匷く私の心に残るのか。それは長先生のお話を聎いたずき、「私も先生ず同じ倖語で二幎間孊びたした」ず、お䌝えしたかったからであった。しかしそのこずはその日どうしおもお䌝えできなかった。なぜなのかはわからない。先生ず私ずは同じ倖語ず蚀っおも、その重みがたったく違う、きっずそう感じおいたのかもしれない。私はすでに1979幎のこの幎32歳ずなり、専攻科で挢語資料を少しず぀読解しおいるだけだった。私の珟実を知っおいる方が、そんなに倚方面にわたっおどうするのか、ず心配しおくださった。私がみずからの䞻題を本圓に知ったのは、2002幎、肺炎で入院しおいた日々においおであった。病床から毎日、窓倖に青く連なる奥倚摩の山々を芋おいる日々だった。私は55歳ずなっおいた。その翌幎2003幎になっおから、私は初めおみずからの䞻題をたずめた䞉篇の論考を、3月から続けお曞くこずができた。そのうちの䞀篇を、私はその幎の12月に奈良県立公䌚堂で行われたSilk Road に関する囜際シンポゞりムで、蚀語・文孊郚門い遞ばれた4名の口頭発衚者の䞀人しお、Quantum Theory for Language 「蚀語の量子理論」ずいう論題で発衚するこずずなった。1967幎の倖語入孊から36幎が経っおいた。Silk Road を蚀語的に逆走するずいう構想は、小さな䞀぀の蚀語理論ずしお、2003幎56歳ずなっおようやく結実したずいえるのかもしれない。この囜際シンポゞりムは、私に予期するこずのなかった莈り物を届けおくれるこずずなった。それは぀づめお蚀えば、英語の垞甚ずいうこずだった。二日間に枡るすべおの招埅講挔、郚門講挔、口頭発衚、パネル展瀺等はすべお英語で行われた。それは囜際シンポゞりムである以䞊圓然なこずであったが、私に匷いこずばでいえば衝撃を䞎えたのは二日目の終わり近く、研究者の方々を䞭心に倚くの人々がメむン䌚堎に参集したずき、䞻題の性栌から、掋の東西にわたり、特に䞭倮アゞアや䞭近東から参集したずおもわれる方々に間近に接し、たったく未知の母語を話される方々がおられる䞀方、より倚くの方々が英語で滑らかに䌚話されおいる状況に接したずき、もはや汎䞖界での亀流を行なおうずするずき、英語以倖での粟密な亀流は倚分困難であろうずはっきり認識したこずであった。これは、どの蚀語が優秀であるかなどずはたったく異なったものである。少数の倧蚀語の独占的な流通によっお垌少蚀語がを滅亡に瀕しおいる状況を蚀語を孊んできた以䞊知らないはずはないが、汎䞖界が理解し合う方法ずしお珟圚取り埗る有効な方途ずしお、英語以䞊に、文法的に簡朔で、ギリシャ・ラテンからアゞアに至る広倧な蚀語からの借甚語圙の豊富な獲埗等によっお他には芋圓たらない自由で闊達な蚀語ずなっおきた英語に、比肩する蚀語は珟圚のずころ芋圓たらないであろう。英語史をひもずけば、ペヌロッパの䞀地域語に過ぎなかった英語が珟圚に至るたでのいわば栌闘の歎史が刻たれた結果、初めお汎䞖界に䜿甚される蚀語の䜍眮を獲埗しおきたこずがわかる。OED Oxford English Dictionary 完成たでの苊難は今では映画にたでなっおいる。単語の初出幎を可胜な限り遡り、語源を遠くトルコ垝囜にたで探る。そうした途方もない努力をOEDは絶え間なく行っおきお、それは今も続いおいる。䞖界からの揎助も続いおいる。日本の英語孊者、忍足欣四郎はOEDをくたなく点怜し、100語以䞊にわたっお語歎等の䞍備を発芋し、それをOEDに䌝えた。OEDはいたは䞖界の英語研究者の叡知の結晶ず蚀っおもいいだろう。OED偎もその郜床圌らの劎に報いおいきた。英文孊者、犏原麟倪郎の随筆によるず、第二次倧戊前、英囜で買い揃えたOEDの補巻が戊埌刊行されたずき、OED偎は犏原先生の日本の珟䜏所を調べ、自宅に無料で郵送しお寄こしたず、曞かれおいた。『詩心私語』文藝春秋、昭和48幎1973幎刊。シンポゞりムから垰った私は、日本語で曞きかけおいた論考を英語に曞き盎し、2003幎から始めたWeb Site においおUpload する Paper ず Essay のすべおを英語で行っおきた。幞いに数孊系で曞かれる論考に䜿甚する語圙は極めお少なく、垞甚語は倚分100語にも満たないであろう。垞甚語を超えた粟密な衚珟は、すべお数匏で衚蚘される。私はここで、数匏が汎䞖界語であるこずをあらためお知った。数少ない公理ずそこから敷衍される定理の衚蚘は、数匏を理解すれば即座に党䞖界で理解可胜なものであった。以䞋は私の2003幎から2007幎に至る、Web䞊で公開した paper ず Essay である。2007幎以降は、公開する論考が倚様ずなり、敎理が耇雑ずなったため、郚分的に䞻題矀を䜜り、その郜床小さな敎理を行っおきた。たずえば Theory がその䞀぀である。Site も次第に耇雑になっおきたため、埐々に増加しお珟圚に至っおいる。SEKINAN LIBRARY FILE 2003-2007SEKINAN LIBRARY THEORYSEKINAN LIBRARY SITE

12.1966-1977 Paper, essay and two books of Hananoi Kazumi

12.1966-1977Paper, essay and two books of Hananoi Kazumi1966幎ヌ1977幎華埜井銙柄先生の論文、随想そしお二冊の本華埜井先生の著述で私が珟圚確認しおいるのは、以䞋のものである。幎代順に列挙する。「スタンダヌルず宗教」『人文孊郚玀芁  1966 和光倧孊』 35頁50頁 1966幎『悪魔のしっぜ―フランスの昔話ヌ』線者 華埜井銙柄・牧野文子 䞉修瀟 1972幎3月1日 第1版「仏語入門䞉぀のタむプ」『和光倧孊通信 第18号』6頁 18975幎4月20日発行『新フランス語文法』著者 華埜井銙柄・䜜田枅・井䞊範倫・䜏谷圚昶 駿河台出版瀟 1977幎4月1日 初版華埜井先生の和光倧孊ぞの着任は1967幎4月であり、本来ならば、論文「スタンダヌルず宗教」の『人文孊郚玀芁  1966 和光倧孊』ぞの掲茉はあり埗ないこずずなるが、䜕らかの事情で、『人文孊郚玀芁  1966 和光倧孊』の発行が1967幎床以降になったため、掲茉が可胜ずなったずおもわれる。はじめに、華埜井先生が和光倧孊でのフランス語教授においお、どのようなおもいを抱いお臚たれおいたかを瀺す「仏語入門䞉぀のタむプ」に぀いおみるこずずする。先生は、必修ずなっおいる倖囜語孊習の䜍眮に぀いお以䞋のように述べおおられる。「私たちは、倖囜語を勉匷するこずによっお、日頃無意識に浞り切っお生掻しおいる日本語ずいうものをはっきりず自芚できるようになるのだず思いたす。」ず簡朔にたずめおおられるが、その孊習に臚む孊生を倧きく䞉぀のタむプに分類しおおられる。「意欲的である」第䞀のタむプ「歩いたり走ったりするには、目的に向っお足を亀互に前に出さなければならないずいう基本をすっずばしおしたう」「意欲的である」第二のタむプ「足もずばかり気にしお、自分が今どこを歩いおいるのか、どこに向っおいるのか䞀向に定かでない人」この二぀のタむプに察しお先生は「䞀緒に勉匷する私の方もいきおい力が入りたす。」ず述べられおいるが、この二぀の評蚀からは、䞀歩䞀歩着実に進むほかに王道はないずする倖囜語孊習の基本の培底を孊生に求めおいるこずが感じられる。私自身は倚分第䞀のタむプに属するずおもう。埌述したいずおもうが、1977幎に刊行された『新フランス語文法』は共著であるが、たさしくフランス語の基本である、動詞の語圢倉化に倚くの課を割いおいる。先生が述べられる第二のタむプは、私からはやや遠いもので掚枬ずなるが、語孊の基盀ずなる文法に即しお考えるずき、珟圚孊習しおいる文法が、フランス語文法党䜓の䞭で、どの䜍眮を占めるかが䞍分明な孊習者等を指すのではないかず掚枬する。英語孊習に䟋を取ろう。「珟圚完了」The present perfect ずいう文法抂念がある。盎蚳すれば「珟圚においお完了しおいる」ずいう抂念であるが、特にこの䞭の「完了」 perfect ずいう抂念を理解するこずは「意欲的である」孊習者にずっおも、かなり難しいのではないかずおもわれる。非理解のたたであるずすれば、「自分が今どこを歩いおいるのか、どこに向っおいるのか䞀向に定かでない」状況におちいるであろう。基本的には、孊習者自身がみずから調べ、䞍分明な点に぀いおは、教授者に質問するずいうこずずなるずおもうが、問題ずなるのは、どこが䞍分明であるのかもわからない堎合である。私が数孊においおい぀も痛切に感じおいるずころだが、教宀においおは、教授者である先生がおられるので、率盎に自分の理解床を䌝えお説明しおいただくこずがよいずおもうが、それ以䞋の堎合はどうなるのであろうか。埌述する華埜井先生が分類された「第䞉のタむプ」ずなるのであろうか。ちなみに、私がずきどき参照するEnglish Grammar in Use THIRD EDITION, CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS, 2004 には別刷りの冊子が挿入されおおり、その冒頭の項目が Present perfect I have doneであり、次の項目が Present perfect I have done and past simple ( I did ) ずなっおいる。この二぀の抂念の違いが倚くの初孊者にずっお理解困難なこずを瀺す䞀蚌巊ずなるであろう。説明は以䞋のようになっおいる。The present perfect is a present tense. It always tells us about the situation now. ' Tom has lost his key.' he doesn't have his key now.The past simple tells us only about the past. If somebody says 'Tome lost his key' , this doesn't tell us whether he has the key now or not. It tells us only that he lost his key at some time in the past.
すなわち、珟圚完了ずいう抂念は、Present tense 珟圚時制であり、決しおPast tense 過去時制ではないず明蚀する。この説明は簡朔であるが、非ペヌロッパ系の初孊者には、tense 時制ずいう抂念がたたひず぀障害ずなるであろう。時制ずいう抂念はペヌロッパの蚀語においおは、動詞の掻甚ず密接に関係しお必須の抂念であるが、少なくずもアゞアの諞語䜿甚者にずっおは、必ずしも通甚の抂念ではない。䞊蚘の説明では、now ず past ずを斜字䜓にしお匷調しおいる。私がテレビでたたたた、むタリアの小さな村の小孊校の囜語の時間を芋たずき、小孊校二、䞉幎生が、むタリア語の動詞掻甚を、䞀人䞀人が先生に向っお朗誊しおいる堎面があった。しかも耇雑な過去時制たでの掻甚を続けお朗誊するのである。母語ずしおも、そのように倚くの努力を小孊生䜎孊幎から行っおいるのである。倖囜語ずしお孊ぶ以䞊、さらなる困難が生じるのは避けられないであろう。 しかし先生はこの「意欲的である」二぀のタむプに察しおは、「䞀緒に勉匷する私の方もいきおい力が入りたす。」ず結ぶ。問題点が先生から芋お、はっきりず確認できるからであるずおもわれる。先生が憂慮されるのは、「無目的、無感動ずいう」「第䞉のタむプ」である。「倖囜語が必修だから止むを埗ないずいう、無感動な殆んど諊めに近い気持が遞択の前に暪たわっおいる」私もほんの少しではあるが、䞭囜語ず朝鮮語の初歩をか぀お䞀般の瀟䌚人に教えたこずがあるが、華埜井先生の感懐ず䌌た経隓をしたこずがあった。䞭囜語ず朝鮮語ずを比范したずき、先生が指摘された第䞉のタむプは、䞭囜語の方により倚くみらみられたようにおもわれた。珟圚は状況が異なっおきおいるずおもうが、韓囜でのオリンピックが開催される以前の、朝鮮語・韓囜語の孊習者は孊習する蚀語そのものに察する、いわば熱いおもいが存圚したようであった。これに察しお䞭囜語の孊習者はその目的が倚様に広がっおいお、ただ挠然ず申し蟌んだ方もおられた。華埜井先生が教授されたフランス語は、䞭囜語よりさらに挠然ず遞択する孊習者が存圚したのではなかったずおもわれる。埓っお先生は、「今日のような恵たれた時代になっおも、独孊ずいうのは少数の䟋倖的な人を陀けば仲々困難なこずであるこずには倉りありたせん」ずしお、「毎週決った時間に決った堎所に同孊の仲間たちが集っお勉匷するずいう制床は、実にたこずに埗難いチャンスなのだず知るべきではないでしょうか」ず結んでおられる。私はこの文䞭の「毎週決った時間に決った堎所に同孊の仲間たちが集っお」の郚分こそ、広く倧孊そのものの本質を述べたものであるず実感しおいる。華埜井先生が本質ず珟実のはざたで苊慮なさっおおられたこずを、今は痛切におもわずにはおれない。「スタンダヌルず宗教」は私が読んだ先生の唯䞀の論文である。論文は四章からなり、以䞋のようになっおいる。1はじめに憎しみ3愛むすび「むすび」のあずに、各章ごずのReference が蚘茉されおいる。 「1はじめに」に察しお3か所「憎しみ」に察しお25か所「3愛」に察しお29か所「むすび」に察しお4か所
以䞋においお、本文の匕甚を「」で瀺しながら、各章を抂芳したいずおもう。私の浅い理解に぀いおは寛恕を乞う。はじめに「スタンダヌルは、宗教の䜕たるかを考えるこずができる幎什に達するはるか以前から、聖職者に察する深い嫌悪ず憎悪の気持を怍え぀けられおいた。」
「聖職者階玚、特に圓時その俗暩をほしいたたにしおいたゞェスむットに察する生涯に亙る反抗ずなった。」
「しかしながら、このこずによっおのみスタンダヌルの宗教芳を断定しお反宗教的ずするのは早蚈である。」
「心情ずしお捉えられた宗教感情に察しおは、無感芚であるどころか、それに感動せざるを埗ない極床に感じやすい魂を圌はもっおいたのである。」
「スタンダヌルが、䞍合理なもの、超自然的なものぞの止み難い嗜奜を持っおいたずいうこずも吊定できない」
2憎しみ「スタンダヌルは、理神論者やノォルテヌルのように、神が人間及び人間以倖の䞀切のものの第䞀原理であるずは信じおいない」
「神が存圚するかどうかずいう問題は、スタンダヌルの劂䜕なる䜜品にも提瀺されおいない。同時代の䜜家たちの間で、圢而䞊孊的䞍安から完党に免れおいたのは圌䞀人であったかもしれない。」
「圌の明晰さは圌の自我を圌自身の倖郚にある䞀切のものず混同しようずいう誘惑に察しお決しお身を委せはしない。」
「スタンダヌルの反匷暩思想は、宗教の領域における圢匏䞻矩ず狭量ずによっおしばしば呌び芚たされるのである」
「スタンダヌルの反匷暩思想の決定的で最も明瞭な珟われは、䞖俗的なものの利益のために、粟神的なものず䞖俗的なものずを結び぀けるこずに察する断固たる拒吊である。」
「スタンダヌルがゞェスむットに察しお最も匷く非難したもの、それはゞェスむットが王政埩叀䞋におけるフランスの支配者であり、軍隊をもち、垝囜を圢づくっおいたずいう点であった。」
「感動的な力、誠実さ、無償の自己拘束に身を委せない䞀切のものを圌は唟棄する。逆に、感動的なものに党身を没入させる自然味を䜕よりも瀌讃するのである。」
「圌が自分の行動の誠実さず自分の自然味の限界ずを吟味しようずしお自分自身の䞊に批評の目を向けるのは、圌の自然さずいう倫理がたさに開花し぀぀あるずきである。」
愛「「今日、サンタンドレ寺院に逃れおきたドミニカンの壁画ず向い合っおいた。昚日は、サント・パラクセヌドであった。」宗教的芞術あるいはむタリアの宗教のこうした絵画的な偎面に察しおスタンダヌルが瀺した愛の䞭には、確かにディレタンティスムがあったかもしれない。しかし、ロヌマ散策䞭に突然むタリアの宗教におけるキリスト教の粟髄に心を打たれたスタンダヌルは、決しお圌の先入芳をここに持ちだしおきおはいない。」
「旅行者スタンダヌルは、たたたたゎチック建築の䞋を散歩しおいお、突然の衝動を実感し、新しい䞖界に自分が移行し぀぀あるのを感じるのである。」
以䞊のロヌマ散策を受けお、華埜井先生はスタンダヌルの『むタリア絵画史』から以䞋の郚分を匕甚する。私、田䞭にはこの論文䞭で最も重芁な匕甚の䞀぀ではないかず思う郚分である。「魂の偉倧なる運動、および人間が事故を超越する幞犏な瞬間を説明する機䌚を、殆ど垞にキリスト教の䞻題が提䟛しおいる。」
「キリスト教は垞に人間を、即ち䜕らかの感動的な状況においおあなた方が興味をも぀存圚を、あなた方に瀺しおいる。」華埜井先生はこの郚分を受けお、フランス語の語圙に察する重芁な指摘を行なっおいる。「このキリスト教瀌讃は、スタンダヌルがしばしば甚いる厇高なずいう圢容詞sublimeを正確に定矩する䟡倀をもっおいる。」sublime に぀いお、LE PETTIT Larousse UILLUSTRE, 2004 では次のように定矩し、䟋文を茉せおいる。SUBLIME ADJ. lat.sublimis, haut1.D'une haute valeur morale, intellectuelle ou artistique ; noble. Sublime abnegation.知的あるいは芞術的な、高い倫理的䟡倀の䞀぀。厇高な。厇高な自己犠牲。
華埜井先生はスタンダヌルのキリスト教瀌讃を、厇高ずいう抂念にふさわしいず評しおいる。先生のスタンダヌルの内面描写をさらに匕甚する。「『むタリア幎代蚘』の䞭では、アノェ・マリアは単に倫理的䟡倀であるのみならず、劇を支配する糞でもある。それは出発点であるず同時に最埌の保蚌でもあるのである。」「宗教的感動は、埓っおスタンダヌルにあっおは創造的䟡倀である。これによっお圌は、行動における性栌を、曎にたた構成ず文䜓における性栌を培底的に展開させるこずができるのである。」「圌は、フランスの合理䞻矩者のブルゞョアになるより、ドン・キホヌテか、、迷信的なむタリア人になった方がよいずさえ考えるのである。」華埜井先生は、この「3愛」の章においお、スタンダヌルのむタリア滞圚䞭における宗教的な反応を繰り返し、叙述する。「魂の真のよろこびを芋出し、芞術の傑䜜ずむタリア人の颚俗ず共に生きたよろこびを、スタンダヌルは宗教に負うおいる。」「むタリア人の信仰は単に内的情熱であるばかりでなく、絵画や遺跡の䞭で、キリスト教の厇高さを惹起するのである。」「厇高、自然、超自然に぀いお圌の抱いおいた抂念は、敬虔なむリア人ずの関係においお定矩され、豊かにされるのである。」この章は、スタンダヌルの、アりグスチヌスの広く流垃したキリスト教の栌蚀ずむタリア人の誠実さず結ぶこずばをもっお閉じられる。「スタンダヌルはよろこんでむタリア人の同朋であるこずを認める。なぜなら「圌らは必芁ずあればアりグスチヌスの Credo quia absurdum ( 䞍合理なるが故に我信ずを䜕床も繰り返す皋の誠実さをもっお信じおいる。」からである。」この章は、冒頭で華埜井先生が簡朔に述べられたこずば「宗教的芞術あるいはむタリアの宗教のこうした絵画的な偎面に察しおスタンダヌルが瀺した愛」をスタンダヌルの『ロヌマ散策』を䞭心に確認し、次第に歎史的に遡り、䞭䞖のアりグスチヌスに至っおいる。むすび「憎しみ」ず「愛」を経たスタンダヌルは、その結果をみずからの䜜品のうちにどのように昇華させたのであろうか。華埜井先生は䜜品の䞭栞になにがあるかを叙述する。「平穏な生掻の䞭にあっおは、圌らスタンダヌルのヒロむンたちヌ田䞭泚は神聖なる掟を䟵すこずもなければ、その掟がどれ皋の力をもっおいるかを考えおみる必芁もない。しかし、圌らの無邪気な信心が、䞀旊神の恩寵の䞖界を知るや、神ずのじかの察決ずいう悲劇的な信仰が突然眪の意識を目芚めさせるのである。」「圌らは、かっおは自分自身の殻の䞭に閉じ籠っおいるようにおもわれたが、眪の意識がその殻を砎った。圌らには、もはや人間は孀立しおもいなければ神の前ではただの䞀人でもないように思われる。䞀人の人間の過ちはそれだけに終らず必ず他人に及ぶ。スタンダヌルの倫理は、人間䞖界を再構成しおゆき、かっおは傲慢ずか、あるいは無邪気さの支配しおいた䞖界から人間を抜け出させるのである。」華埜井先生は本論文の結語ずしお以䞋のように述べる。「スタンダヌルが愛し、称賛するもの、圌が描写し高揚させようず目指すもの、それは信仰をこのように劇的緊匵の状態にたで導くこずであったのである。」私はしかし、先生がこの結語の前に述べた䞀文が、決定的な重みをもっお、みずからの若き日々からの近代ずいうものの本質を射ぬいた先生の慧県に、目が芚めるようであった。あるいは、この先生のこずばず出䌚うために、この論考にたで至ったのではないかずさえおもうのである。「神の摂理のテヌマは、自分自身ず劥協しない、即ち自己ずの厳しい察決のテヌマず䞍可分のものである。」私の感懐をここでは簡朔に蚘す。私は青春の日々から、近代に惹かれ、それがどのようなものであるかを探し求めおきた。しかしそれは垞に自分の倖に探し求めるものであった。しかし華埜井先生はスタンダヌルの生涯を研究する䞭で、近代そのものの本質をも、これ以䞊ない簡朔な衚珟で、私のながい探究に応えおくださった。近代はみずからの内に存圚しおいた。そしおそこには厳しい察決が䞍可分であった。私は青い鳥を探すかように、みずからの倖を探しおいた。近代がいかに厳しい察決の䞊に成り立っおいたかをたったく顧みるこずもなかった。しかもそこには぀ねに神が介圚しおいた。華埜井先生ぞの感謝は深い。以䞋では、華埜井先生の二冊の著曞に぀いおふれる。しかし二曞ずも、フランス語孊・フランス文孊の専曞に属し、私の珟圚の胜力を超えるものであり、埓っおここでは私の乏しい経隓に即しお、若干のコメントを蚘すにずずどめたいずおもう。『悪魔のしっぜ―フランスの昔話ヌ』線者 華埜井銙柄・牧野文子 䞉修瀟 1972幎3月1日 第1版 1995幎4月10日 第7版『新フランス語文法』著者 華埜井銙柄・䜜田枅・井䞊範倫・䜏谷圚昶 駿河台出版瀟 1977幎4月1日 初版 1984幎4月1日 䞉版二曞ずも版を重ね、フランス語・フランス文孊を孊ぶ人々に益したこずがうかがえる。初めに『新フランス語文法』に぀いお蚘す。この曞は、「発音」のあずに「Lecon 1」から「Lecon 10」があり、Lecon 党䜓で44章からなっおいる。そのあずに「付録」ずしお数詞および句読笊号を列挙する。「たえがき」によれば「基瀎的な文法事項を、動詞を䞭心に10課にたずめおみたした。」「幎間20回䜙りの授業で無理なく孊習し終えるず思いたす。」ずあるように、本曞が倧孊でのフランス語初玚の䞀幎間の授業に合わせお䜜成されおいる。4名の著者よりなるので、華埜井先生がどの郚分を担圓されたかは䞍分明であるが、4名の合議によっお線集されたものであり、圓然華埜井先生の文法に察する考えがここに反映されおいるずみおよいであろう。私がか぀お愛甚した朝倉季雄『朝倉初玚フランス語』癜氎瀟1965幎第1刷1985幎2月25日第25刷、はその「たえがき」で「この本はフランス語をこれから勉匷しはじめようずするかたのために線たれた独習曞ですが」ず述べられおいおやや性栌を異にするが、二曞を比范するず、『新フランス語文法』の特城が芋えおくる。『朝倉初玚フランス語』は党100章であり、やや高床な条件法珟圚圢が出おくるのが第89章であり、第100章たでの蚈12章で接続法たでを述べる。これに察しお、華埜井先生等4名の『新フランス語文法』では党44章のうち、29章以䞋44章たでの蚈16章で、盎接法半過去から接続法たでを詳述する。本文党䜓で45頁であるこずを考えるず、初玚甚文法曞ずしおは、やや高床な内容ず蚀えるかもしれない。しかしあるいはこれが珟行の文法教科曞の通䟋であるかもしれない。『新フランス語文法』の本文は45頁であるが、そのあずに黄色刷りの「動詞掻甚衚」が20頁付されおおり、党䜓ずしおフランス語孊習においおは動詞が最も重芁であるずいうフランス語孊の王道を、4名の著者によっお確認し䜜成されたこずがうかがえる。ひず぀だけ、私の関心を瀺そう。フランス語孊習においおなぜ動詞の掻甚が最も重芁なのか。以䞋では、やや现かくなるが、スむスの蚀語孊者Charles Bally シャルル・バむむの『䞀般蚀語孊ずフランス蚀語孊』小林英倫蚳、岩波曞店 1970幎8月31日 初版発行、を適宜参照する。小林先生はこの倧曞を蚳了するたでに、1957幎から1970幎たでの13幎間を芁したこずが、蚳曞の冒頭の「解説」に蚘されおいる。和光で䞭囜思想史等を講じられた西順蔵先生は、若き日朝鮮の京城倧孊で小林先生ずずもに、孊生を教えられた。西先生から、小林先生の面圱を教えおいただいたこずが、今も懐かしくおもわれる。日本ぞ垰囜するずき、西先生は小林先生ずご䞀緒であったずうかがったこずがある。西順蔵先生からは私の勉匷の基盀ずなる䞭囜哲孊等のご教瀺を受けたが、本論考ずは別の分野であり割愛する。か぀お䞭囜叀代思想史の講座においおほが半幎にわたっお講矩された易経は忘れ難い。たたれミ生ず䞀緒に幟床か旅した憶い出は尜きない。特に矀銬県の霧積枩泉ぞの二床の旅が懐かしい。先生の奥様が䜜っおくださったパりンドケヌキを先生が手ずから切っお私たちにふるたっおくださった。倕食埌先生ず二人で話した折り、私が圓時少しず぀参照しおいた段玉裁の『説文解字泚』に぀いお尋ねたずき、先生が即座に「あんな難しい本、読めるかいな」ずおっしゃったこずが蚘憶に残る。私は咄嗟に、先生ず私の本に察する、レベルの遙かな懞隔をおもいやった。西先生の1984幎の没埌、瀟䌚史の阿郚謹也先生が曞かれた『北の街にお』講談瀟 1995幎を読み、小暜にいらした阿郚先生ず東京の西先生ずの間で100通を超える手玙のやり取りがあったこずを知った。西先生が霧積で阿郚先生のこずを、遠くを想いみるようにしお話されたこずがしのばれる。䜙事であるが、私は『北の街にお』読了埌、阿郚先生に、西先生をしのぶ短い詩を添えおお手玙を差し䞊げた。先生は未知の私に䞁重なご返事をくださり、その䞭で、あの霧積のころが懐かしいずお曞きになっおいた。私も今、䞡先生を霧積ず重ねお同じ憶いにかられる。そのころたた、川厎庞之先生ずご䞀緒しお旅した日々も懐かしい。
『西順蔵著䜜集』党3巻・別巻1巻が1995幎から1996幎に内山曞店から刊行された。線著『原兞䞭囜近代思想史』党6冊、岩波曞店 1976幎ヌ1977幎は、先生を慕う若き研究者たちず暪浜の先生の埡自宅で講読を続けた、圓該䞻題の必須の文献である。
INFLUENTIAL 3
先生はたた、『岩波哲孊小蟞兞』栗田賢䞉・叀圚由重 ç·š 岩波曞店 1979幎、の䞭囜関係の項目のすべおを執筆された。倧孊からの䞋校時、先生ずご䞀緒したずき、先生からじかに䌺った。この蟞兞は小型であるが、哲孊の基本抂念を簡朔にしかも粟密に定矩しお、固有名詞等には原綎りを添えおいる。たた玢匕が敎っおいお、人名玢匕・事項玢匕・倖囜語人名玢匕・倖囜語事項玢匕・ロシア語玢匕の5皮の玢匕がある。玢匕だけで、279頁から321頁の43頁を芁しおいる。
私は小型蟞兞の有甚性は極めお高いずおもう䞀人である。か぀お蟞曞をほずんど利甚なさらないずおっしゃっおいた川厎庞之先生が愛甚しおおられた䞀冊の小型蟞兞がある。山川出版瀟から昭和32幎1957幎に刊行された『日本史小蟞兞』である。先生はこの蟞兞を称しお「玉手箱のようだね」ずおしゃっおいた。垞甚ではないが、ずきに必須ずなる小型蟞兞の数冊を列蚘する。小型蟞兞は䞀皮䞍思議な存圚であるず、今もおもう。限られた容量の䞭に、だれもが必芁ずするものを、どう遞択しおどう蚘述するか。OXFORD New Greek Dictionary. Greek-English English-Greek. Oxford University Press. 2008THE BANTUM NEW COLLAGE LATIN & ENGLISH DICTIONARY. Bantum Dell. 1966The Concise Dictionary of ENGLISH ETYOLOGY. Wordsworth. 2007Oxford English Mini Dictionary. Oxford University Press. 1981Paperback Oxford English Dictionary. Oxford University Press. 2001LONGMAN Handy Learner's DICTIONARY OF AMERICAN ENGLISH NEW Edition. Person Education. 2000PETIT DICTIONNAIRE FRANCAIS. Librairie Larousse. 1990The Oxford Quick Reference German Dictionary. Oxford University Press. 1998OXFORD New Russian Dictionary. Russian-English English-Russian. Oxford University Press. 2008西先生からは、著述に関する倧切なこずを教えおいただいた。1985幎に䞉省堂から刊行された『熊野䞭囜語倧蟞兞』のこずである。この蟞兞を線纂されたのは、西先生の䞀橋倧孊における同僚でいたした、熊野正平先生である。熊野先生は䞀橋においお、䞭囜語孊を孊生に教授されおおられたが、先生の生涯の孊瞟は、䞊蚘の蟞兞の線纂ず刊行ずであった。この蟞兞の線纂がいかに困難であり、さらにその刊行はさらに困難であった。しかしさたざたな障碍を超えお、先生の線纂着手以来30幎を経お、この蟞兞は刊行され、倚くの方々に先生の孊瞟は受け継がれた。熊野先生が昭和46幎1971幎に曞かれた「緒蚀」ず1985幎に䞉省堂によっお曞かれた「あずがきに代えお」を以䞋に匕甚しお、先生が遭遇したその困難の䞀端をお䌝えしたい。
緒蚀「この蟞兞の線纂は昭和30幎着手、爟来玄15幎を経おようやく出版の運びずなった。䞭略カヌドの総数は玄20䞇枚、敎理によっお陀いたものが玄5䞇枚、埓っお線纂工䜜の察象ずなったのは玄15䞇枚であった。」「原皿カヌドをむンフォヌマントの䞭囜人ず共同しお逐䞀怜蚎するような愚盎な方法は、かなり時間のかかる劎䜜ではあったが、これは䞀床は誰かがやっおおくのも異議無しずしないず考え、私は敢えお終始この方法を採った。䞭略 昭和46幎 春 熊野正平 識」あずがきに代えお「本曞は元来コンサむス・シリヌズの䞀環ずしお䌁画された。䞭略これをお諮りしたのは1954幎昭和29幎秋のこずであった。」「この時期は囜の内倖においお転換の時期でもあり、䞭略ひいおは小瀟の倒産1974幎ずいう珟実もこれに远い打ちをかけるこずずなっおいった。䞭略1973幎に本䌁画は已むなく䞭止ずなった。」「先生は黙し難い思いを胞底に秘められたたた遂に1882幎昭和57幎䞍垰の人ずなられた。䞭略たさに満84歳の埡生涯であった。」「善意ず努力ず協力が結晶し、昚幎10月10日䞭略䞊梓されたのである。その淵源より数えおたさに䞀䞖代、30幎を芁した。䞭略1885幎4月8日 株匏䌚瀟 䞉省堂」
INFLUENTIAL2

以䞊が熊野先生の線纂なさった蟞兞刊行たでに至る経緯である。孊問が無数の人々によっお継承されお行くこずに、䜕人も襟を正すであろう。ここに䞉省堂の蚱諟を埗お、1985幎11月3日の朝日新聞朝刊に、䞉省堂によっおなされた本曞の広告を再掲したい。簡朔にしお粟緻であり、本曞成立の歎史を通芳するにふさわしいずおもわれるからである。
朝日新聞 1985幎11月3日 朝刊 © 䞉省堂

バむむに戻る。フランス語孊習においおなぜ動詞の掻甚が最も重芁なのか。 バむむの結論は以䞋である。
「フランス語では動詞意矩郚は完党に語尟ず文法的限定のうちにおがれおいる」 ã€Œå‹•è©žã¯ã™ã¹ãŠã®å“è©žã®ã†ã¡ã§æ„å‘³çš„自立性のもっずも少量のものである」簡玄するず、動詞はその語幹だけでは特定した意味を衚せない。どうしおも語尟によっお瀺さなくおはならない。その必芁性があらゆる品詞のなかでもっずも倧きいからである、ずいうこずであろう。次いで、華埜井先生ず牧野文子氏ずの共著である『悪魔のしっぜ―フランスの昔話ヌ』に぀いお蚘す。この曞の冒頭にある「この本を読たれる諞君ぞ」には「倢の䞖界に遊ぶような楜しさを味っおもらえる思いたす。」ず述べられおいる。この簡朔なこずばのうちには、華埜井先生の熱いおもいがしのばれるようにおもう。先生の実匟でいらっしゃる、華埜井究氏は、先生が垰省なさったずき、これらのフランスの昔話を究氏に語っおくれたずいう述懐を私に䌝えおくださった。スタンダヌルの生涯を研究なさった先生が、なにかほっずなさっお、フランス語・フランス文化の根底にある人々の姿をおもいやっおおられたのではなかっただろうか、私はそんなふうにおもう。この曞には五篇の昔話が収められおいお、そのあずに5頁の本文泚釈 Notes が付けられおいる。五篇の題名は以䞋のようである。Le renard et le chatLe Champ aux SorciersLa queue du DiableLa Dame blancheWolf Dietrich盎蚳するず「狐ず猫」「魔法䜿いの野原」「悪魔のしっぜ」「癜い婊人」「狌ディヌトリッヒ」ずなる。「この本を読たれる諞君ぞ」の裏頁に、以䞋のようにこの曞の出兞が衚蚘されおいる。1952, 1953 by Fernand Nathen, ParisTitle de l'edition originale; Collection CONTES ET LEGENDESpubliee par Ferdinand Nathen, Paris
ここでは、本曞の衚題ずなっおいる「悪魔のしっぜ」に぀いおふれる。この昔話の抂芁は以䞋のようである。

「昔々、Vesoul の近くのAuxonに、 Tienot ずいう名の男がいたした。圌が仕事を終えおお金をもらい、お酒を飲んで家ぞ垰る途䞭で男が倒れおいるのを芋぀けたした。ひどく寒い日で、男はたるで切り株のように固く凍っおいたした。Tienot は男を肩に乗せお家に垰りたした。家に着くず、圌は男をオヌブンに入れ扉を閉めたした。「神様、倫は死䜓を料理しようずしおいたす」ず劻のBabette は尋ねたした。「圌は死んでなどいない、凍っおいるんだ」奜奇心旺盛な圌女は埅ちきれずにオヌブンを開けお、驚きの声を挙げたした。「これは䜕」「もちろん矊じゃない」「銬鹿これは子矊よ」「子矊おれになんおこずを蚀うんだ」「来お芋お、このきれいな赀いしっぜを」圌がオヌブンに近づくず、疑う䜙地はありたせんでした。人の腕䜍の長さで、赀ず黒の光沢をもったふさふさした毛でした。そのしっぜは振られ空を切り蛇のようにしなやかでした。Tienot が考えこんでいるず、Babette がふず思い付きたした。「Tienot, もしかしお悪魔じゃない」「なんおこず蚀うんだ」「でもこれは真実よ」Tienot は萜ち着きを取り戻すず、䞍思議な突起物を思い切り匕っ匵りたした。「痛い、痛い私を匕き裂くんですか」「それがどうした」Tienot はあざ笑っお、「おたえはもっずきれいな子になるさ」「痛い、痛い私に手を觊れないで、そうすればあなたの望むものを差し䞊げたす」「ばかな、おれの望むものをなんでもか」「そうです、あなたはお金持ちになりたす、もう働く必芁はありたせん」悪魔は人間が最も関心を持぀こずを持ち出しお、䞀握りの金貚を投げたした。Tienot はおっぜを離したせんでしたが、Babette は怖がらずに金貚を集めたした。「おたえは金持ちだな、もっず芋せおくれ」ずTienot は蚀った。するずオヌブンからさらに金貚が出おきたした。Tienot は悪魔の曲がった手を芋お、考え蟌みたした。「おたえは悪魔か」「その通りさ」「なんでおたえは地獄にいないんだ」「私にはここでするこずが䞀杯あるのさ。あんたが居酒屋で䞀杯やるずき泚いでやったし、あんたのコップが空らになったずきは私が継ぎ足したのさ」「それはありがずう。でもなぜおれの垰り道で凍り付いおいたんだ」「私は暑いのが奜きで、あんたの所のオヌブンが奜きなんだよ」「それは良かったどうかごゆっくり」Tienot は時を眮かず、斧を持っおきお。それで薪割台に悪魔のしっぜを釘で打ち付けたした。パン、パン、パン「痛い。痛い」悪魔はうめき声をあげた。「これで終わりさ」Tienot は笑った。Tienot はこうしお悪魔を捕たえたこずを村人に知らせに行った。村人ははじめ信じなかったが、それが本圓であるこずを知るず、みな圌を称え、その倜は皆で倜遅くたで飲み続けたした。悪魔が捕たるず、村の男たちは争いを起こさず、女たちはおだやかになり、子䟛たちも、悪童でさえ、みな勉匷奜きになりたした。誇りず喜びを埗たTienot はもはや悪魔に䜕も求めるこずなく、蓄えた財産を村人のすべおに、さらには自分が奜きではなかった人々にも、その財産を分け䞎えたした。Tienot の名声は拡がり、4人の乞食僧に䌝わり、圌らはAuxon に向かい、Tienot が村を出おから数時間埌に到着したした。劻のBabettetは、Tienot がたた貧しくなるこずを知っおいたした。そこで、みずからのために悪魔のしっぜを切り萜ずし、自分のずころに残したした。「私はこのしっぜを Tienot よりも䞊手に䜿いたす」ず4人の乞食僧に蚀いたした。悪魔は自由ずなっお逃げおしたった。Babettet は乞食僧たちに蚀った。「どうかこのしっぜを䜿っおください」ず。僧たちはしっぜを匕っ匵っりたしたが、䜕も埗られたせんでした。なにかが欠けおいたのです。結局、この善良な乞食僧たちは無駄な努力をしただけでした。ですから、たじめに仕事をしながらも、心の安らぎを埗られずに生きる人たちのこずを、悪魔のしっぜを匕っ匵っおいる人たちずいうのです。」
以䞊がその抂芁である。
本曞の「この本を読たれる諞君ぞ」で、この昔話 La queue du Diable は、フランスの Franche-Comte 地方に䌝えられたものであるず述べおおられる。倧阪倧孊出版䌚から刊行された『フランス児童文孊のファンタゞヌ』石柀小枝子・高岡厚子・竹田順子、2012幎の「第1章 昔話 8 悪魔のしっぜ 䜕が悪魔に打ち勝ったかヌ 」では以䞋のように述べられおいる。「「悪魔ずの契玄」の話はに西ペヌロッパ、ポヌランド、りクラむナ、ロシアにも広く分垃しおおり、ずり䞊げられおいる類話も倚い。」65頁
私は日本の昔話も含めお、こうした䌝承研究に぀いおはその抂芁すらたったく未勉匷であり、華埜井、牧野䞡先生の『悪魔のしっぜ―フランスの昔話ヌ』の内容に぀いおは述べる玠逊もなく、本曞をフランス語初玚のテキストずしお芋たずきの印象を述べるに留めたいずおもう。「この本を読たれる諞君ぞ」では「いずれも珟代暙準語で曞かれおいたすし、特に難しい衚珟も䜿われおいたせんから、初玚文法を䞀通り終わった人には比范的簡単に読めお」ず曞かれおおり、末尟では「ここにでおくる条件法ずか接続法の甚法などで、もしわからないずころがあったら、初玚文法の時間をもう䞀床振り返っおみお䞋さい。」ず文法的な指瀺が䞎えられおいる。私のような初玚レベルのみでずどたった孊習者にずっおは、単語は日垞語が倧半を占めるが、文法的にはかなり倚圩であり、巻末の Notes も、難しい口語衚珟のようにおもわれた。あるいは、Original Edition が、1952-1953幎ずいうこずも関係するかもしれない。華埜井・牧野䞡先生の『悪魔のしっぜ―フランスの昔話ヌ』が䞉修瀟から刊行されたのは1972幎で、私が所持するのは1995幎第7版であるが、郜立倚摩図曞通で確認するず、2001幎で26版ずなっおいるこずを確認した。私は出版の状況にうずいが、倧孊講読甚のテキストずしおは、充分すぎる量が刊行されたずおもわれる。埓っお、その本来の目的に良く合臎したテキストずおもわれるが、初玚者の私自身にずっおは、初玚甚ずしおはやや難しく感じられお、あらためお倖囜語習埗の難しさを再確認するこずずなった。和光倧孊・昭和48幎床1973幎床の講矩芁目によるず、共著者の牧野文子先生は倖囜語講座においお、「仏語 初玚A①  A④  A ⑥ B④ B⑥  B③」の6口座を担圓しおおられた。その受講案内ずしお以䞋のように曞かれおいる。「ここ数幎、出垭は孊生の意志に任せおきたが、それは奜たしくないこずが分かった。やはり授業で着実に少しず぀孊んでいくこずが、成果をあげる こ぀ である。こんな事は、私自身にもわかっおいたのだが、語孊の予習が専門の科目の邪魔になっおはずいう配慮は、かえっお孊生には䞍芪切であったようだ。授業䞭は満遍なく圓るこずを芚悟しおおいおもらいたい。難解な文法知識はさおおき、やさしいこずが正確にできるように、埓来より読みを䞭心におくように心がけおいく぀もりなので、孊生は必らず、予習をしおくるこず。」華埜井先生は同幎1973幎床の「仏語 䞭玚 C ①」の講矩芁目においお、以䞋のように曞かれおいる。「初玚の時間に䞀応孊んだはずの基瀎的文法知識を話甚掻甚の誀怍ずおもわれるしお、比范的易しいフランス語で曞かれた教材を甚いお、蟞曞をたよりにフランス語を読むこずが楜しめるように蚓緎したいず思いたす。そのためには蚀うたでもなく予習ず出垭を欠かさないこずが必芁です。できれば日仏孊院ずかアテネ・フランセずかに通っおフランス人の話すフランス語に接するのもよいでしょう。簡単な䌚話ぐらいはできるようになっお、䞀局おもしろくなるず思いたす。」䞡先生の受講案内からうかがえるこずは、出垭は圓然ずしお、毎回の予習、着実に孊ぶ姿勢、蟞兞の掻甚などが、倧切であるず孊生に䌝えおいるが、それが埓来あたり孊生に培底しおいなかったこずが掚察される。この12章の冒頭で匕甚した華埜井先生の随想「仏語入門䞉぀のタむプ」1975幎においお分類された「第䞉のタむプ」を繰り返し匕甚する。「倖囜語が必修だから止むを埗ないずいう、無感動な殆んど諊めにち近い気持が遞択の前に暪たわっおいる」ここには、華埜井先生・牧野先生が盎面しおおられた、倚分い぀の時代においおも倉わらないであろう、倖囜語孊習の困難さが暪たわっおいたであろう。私自身は語孊孊習における文法に぀いおは、むしろ楜しいほうの䞀人であり、癜氎瀟から刊行されおいたクセゞュ文庫の『ロシア語文法』などは小説よりも楜しいくらいで䜕床も繰り返し読んだ蚘憶があるが、私が孊んだどの蚀語の孊習においおも習埗した語圙数の少なさには、今も匕き続き悩み続けおいる。簡単な挚拶皋床の䌚話は別ずしお、どの蚀語においおも、最䜎限7000から8000語ほどの語圙数の取埗は必須であるずおもわれる。ちなみに今回『悪魔のしっぜ―フランスの昔話ヌ』を読むにあたっお、初玚者である私は圓然蟞曞を必芁ずしたが、芋出し語が玄5000語である癜氎瀟の『パスポヌト初玚仏和蟞兞』第3版、2005幎では採録されおいない語圙が倚く、結局、癜氎瀟でその䞊玚に圓たる『Le Dico 珟代フランス語蟞兞』1993幎や䞉省堂の『クラりン仏和蟞兞』第5版 2001幎を甚いるこずずなった。採録語圙は前者が玄3,4000語であり埌者はその「はしがき」においお採録語圙数を明瀺しおいないので、蟞兞の刀型、総頁数等から類掚しお、掚定ではあるが『Le Dico 珟代フランス語蟞兞』ず倧きな差はないずおもわれる。華埜井先生のフランス語教授の姿勢は、䞊で匕甚した「初玚の時間に䞀応孊んだはずの基瀎的文法知識を話甚掻甚の誀怍ずおもわれる―田䞭泚しお、比范的易しいフランス語で曞かれた教材を甚いお、蟞曞をたよりにフランス語を読むこずが楜しめるように蚓緎したいず思いたす。」ずいうこずばに尜きおいるようにおもわれる。華埜井先生はきっず蟞曞がお奜きであったろうず、そんな単玔なこずを今になっおおもう。先生に蟞曞のこずをお尋ねしたら、先生からどんなお話が聎けただろうかず、おもう。フランス文孊の䞖界は今も私にはたったく未知であるが、蟞曞のこずならば、少しは䌚話になったかもしれないず、おもうこずがある。華埜井先生はその短い生涯においお、文法ず講読の二冊の著曞を残された。そのいずれもの粟華は仏語仏文孊を愛し教宀で真摯に孊んだ和光の孊生に受け継がれたであろう。



13.1976Two sadness

13.1976Two sadness1976幎二぀の悲しみ1976幎4月、私は5幎勀務した郜立北倚摩高校から、新蚭された郜立青梅東高校ぞ転勀した。ただ䞀幎生だけの孊校だったが、あわただしい日々が続いた。私は教務郚で、北倚摩でも行っおいた新幎床の孊幎時間割䜜成をたかされ、各教科の先生方の状況やクラスの䞀週間の各教科の時間配分が無理のないように心がけながら、3月末にやっず終わったばかりだった。入孊匏等の幎床初めの予定がすべお終わり、担任ずしおの仕事も䞀段萜しお、通垞の孊習ずなっお少しほっずしおいるずきだった。今でもその日をよくおがえおいる。倩皇誕生日の前日の4月28日、その日の授業がすべお終わるこずだったずおもう。私に電話があり、受けるず和光の友人からだった。その名前を今は倱念したが、その友人から、和光倧孊文孊科の初代孊科長だった近藀忠矩先生が危節だずいう知らせであった。私は先生から毎幎、お返事ずしおの幎賀状をいただいおおり、お元気だずばかりおもっおいたので、茫然ずした。先生は毎幎、今幎も立春前になんずか届けるこずができたず、先生らしい文面で、はがき䞀杯に曞いお送っおくださった。こんなに䞁寧にみなに曞くのは倧倉だろうず、い぀もおもっおいた。入院先は、小田急線東林間駅から埒歩の東芝林間病院ずいうこずを教えおもらい、事情を話しお、その日は早めに孊校を退出した。圓時は自宅から高校たで自転車で通勀しおいたので時間がかかり、自宅から電車を乗り継ぎ新宿駅から小田急に乗っお南林間駅に着いたのは、4月なのにもうあたりは倜で暗く、倜7時は過ぎおいたずおもう。病院たでの道を急いだ。病院はもう静たり返っおいた。先生の病宀を教えおもらい、階䞊ぞ䞊がり、先生の病宀を確認した。卒業生ずおがしき人が二、䞉人いたが、私の知らない人たちだった。時間がおそく私は友人には䌚えなかった。ふず右を振り向くず、そこに゜ファヌがあり、のちに和光の孊長ずなられた日本文孊科の杉山康圊先生が、巊手を゜ファヌの䞊に眮き、ゆったりず腰を䞋ろしおいた。先生も私を認め、私は無蚀で挚拶した。杉山先生ずはこの数幎しばしばお䌚いしおいた。日本文孊科卒業生たちの同窓䌚も兌ねた研究䌚、和光倧孊日本文孊䌚を立ち䞊げるために、2期生が発議し、3期生以降の卒業生も次第に加わり、人文孊郚長でいらした叀田拡先生ず文孊科長でいらした近藀忠矩先生の最終講矩が行われた1976幎1月31日たでには、その䜓裁はほが敎っおいたずおもわれる。䌚の今埌に぀いお幟床も話し合っおくださった。䌚則を最終的決定する蚭立総䌚を和光の䞀宀で行った日、ただ䞀般の文孊科日本文孊専修の卒業生にずっおは未知の䌚であったため、来校者はほずんどなく、杉山先生ず垞任委員䞭心のこじんたりした䌚ずなった。そこに䞀通の電報が届いおいた。文孊科長の近藀先生からであった。「和光倧孊日本文孊科の蚭立を祝す」ずいう文面であったずおもう。私はそのずきの杉山先生のこずばを今も蚘憶しおいる。「近藀先生らしいな」、杉山先生は近藀先生ぞの敬意をこめお、私たちにそう話された。杉山先生は、私の卒業論文の口頭詊問で副査ずしお宮厎健䞉先生ず同垭され、テヌブルの向こうから、私のたずたりのない論文に察しおいく぀かの質問を行った。私の論文は、小説を通しお日本の近代の䞀面を私小説等ず察比しながら考察しようずしたものであったが、私の圓時の力ではいかんずもしがたく、今では論文の結論もおがえおいない皋床のものだった。400字詰めの原皿甚玙で250枚ほどの厚いものであったが、杉山先生は「匕甚の倚い論文だな」ずおっしゃったので、私はただ「すみたせん」ずみずからの非を認めるしかできなかった。先生はそうした率盎な物蚀いで、い぀も明るく爜やかに孊生䞀人䞀人に察しおくださった。病院での緊匵した私を萜ち着かせるかのように、先生は穏やかに話しおくださった。「先生は今日は倧䞈倫だよ、明日も倧䞈倫だろう」、そう少し埮笑たれるようにおっしゃお私を安心させおくださった。時間も遅く、ほかの先生ももうおられなかったが、杉山先生はお䞀人でもうしばらくは、病院にずどたる感じだった。倖に出るず、空はもう挆黒の倜ずなっおいた。私は駅ぞの道を歩きながら、なんずも蚀えないさびしさを䞀人感じおいた。もしお亡くなりになれば、悲しみが襲うだろう。ただ、そのずきは無性にさびしいおもいだけだった。和光の二幎間は私にずっお、特に線入孊した1969幎は「埩掻」の日々だった。この題を持぀トルストむの小説を私は未読であったが、「囜語衚珟」のずき、叀田拡先生からその内容を䌝え聎くこずができた。私の倖語での二幎間は孊習ず通院が盞半ばした。自分なりによく孊んだずはおもうが、二幎目は入院や怜査が続き、孊ぶこずよりも、回埩するこずが私の䞭心ずなっおいた。その疲れは知らぬ間に蓄積しおいた。勉孊のおくれを気にしたこずはほずんどなかった。すべおはそれ以前であった。倖語を離れるこずは、ただ元気だった䞀幎の秋にもう自分の䞭で決定しおいた。二幎間の教逊課皋を終えたら、私はここを去るだろう。しかしどこぞ。それにみずからの病気はどうなっおいくのだろう。そうしたこずが私の䞭で去来しおいた。私はやはり疲れおいた。
和光ぞ線入孊した春からの日々は、私にずっお叀田先生が教えおくださった「埩掻」の日々ずなっおいった。特に叀田先生の講矩が胞にしみた。講矩は様々な蚀語衚珟に及んだ。宮厎県に䌝わる「刈り干し切りうた」があった。芭蕉の句「村叀りお柿の朚持たぬ家もなし」を教えおくださった。はるか埌幎、家内ず秩父を旅したずき、列車から芋るどの家にもみな柿の朚があり、私は先生が教えおくださったこの句を憶い出しおいた。昭和庚申春、1980幎、同孊幎でずもに教員ずなった酒井君ず田蟺君ず私は、倚分幎始であったずおもわれるが、叀田先生のご自宅を蚪問し、それぞれの近況等をお䌝えしたこずがあった。先生はその日手元に眮かれおいた『老子』の文庫本を繰られお、私たち䞉人に別々の文を抜き出されお色玙に揮毫しおくださった。私には「虚其心 実其腹」ず曞いおくださった。「其の心を虚しくし、其の腹を実にす」。色玙には「䞍充」ず先生の号を揮毫なさっおおられる。幎号を「昭和庚申」ず干支で蚘茉されおおり、1980幎であった。私はこの色玙を和宀の壁に掲げ、私の生涯を先生の色玙ずずもに過ごすこずずなった。
 叀田拡先生揮毫 色玙
䞍充 虚其心 実其腹  昭和庚申春 
 1980幎
吉川英治の「新平家物語」の最終堎面で老倫婊が暹陰で憩う堎面も教えおくださった。挱石の「野分」を講矩しおくださったあず、私はすぐに図曞通に行き、挱石党集で、この短線を確認した。そうした先生から聎いた䞀語䞀語が私の心に響いた。こうした講矩を私はいたたで聎いたこずがなかった。それは通垞の孊問ずは違う。孊問ず人生を結ぶ叡知ずも呌ぶべきものであったろう。私は和光に来おほんずうによかった、そうおもう日々が続いた。しかし叀田先生からは、幟床ずなくしかられた。それらはすべお私の非に起因するものであったが、通垞は倚分䞀過性のものずしお、しかられるこずがなかったのだろう。しかし叀田先生は違った。その堎ですぐに指摘しおくださった。そこには二十歳を過ぎたずはいえ、未熟そのものであった私ぞの暖かなたなざしがあった。初めお叱られたずきのこずはたざたざずおがえおいる。倚分線入孊した1969幎の初倏の頃だった。ようやく和光に慣れた私は叀田先生からお借りした本を、研究宀にお返しに行った。ドアを開け、先生に盞察しお、埡本を返しながら借甚のお瀌を述べようずしたそのずき、突然の叱責であった。「本を返すのに、壁に寄りかかっおいるずはなにごずか」。先生は厳しく匷い声で私の動䜜を叱った。私の右肩が確かに壁に觊れおいた。研究宀のセンタ―にはれミ甚などのテヌブルがあり、机間ず壁はあたり広くなかった。しかし確かに私は壁に寄りかかっおいた。私はただ、申し蚳ありたせん、ず謝るこずしかできなかった。先生の研究宀を蟞しながら、しかし私には䞍思議な感芚が残っおいた。䞍謹慎かもしれないが、みずからの非に぀いおの反省ではなく、私の行為に察しおそこたで匷く叱責し、真剣に察峙しおくださる、そういう貎重ななにかが、この倧孊には厳然ずしお存圚する、この倧孊はなんずいう倧孊であろう、これが和光なのか、和光が私の本圓の空間になった、そのような感芚ではなかったかずおもう。幎を経た今はそのこずに぀いお、初代孊長でいらした、梅根先生のこずばが重なる。梅根先生が和光に思い描いた理想の倧孊像は、叀田先生の䞀぀の厳しいこずばに厳然ず具珟されおいた、私はそうおもう。梅根先生のこずばをもう䞀床くりかえそう。誠文堂新光瀟発行の『生掻教育』1965幎5月号、「教育断想 和光孊園倧孊」の末尟である。「ただ孊問ず教育の奜きな連䞭が集たっお集団的に運営しおいる倧孊、その意味でペヌロッパの䞭䞖倧孊がその始原においお瀺したような、孊者教垫の集団りニノェルシタス、スコラリりムずしおの倧孊の理念を今日においお再珟したず蚀っおもいいような倧孊、それが和光の倧孊のあるべき姿ではないだろうか。和光孊園倧孊を䜜るこずに぀いおの盞談をうけながら、私は、そんなこずを考えおいる。」研究棟はい぀も、䞉幎生を䞭心ずしたれミ参加孊生が各研究宀に集っおいた。1969幎圓時、各研究宀の扉は開け攟されおいるこずが倚かった。私が属した䜐䌯先生の研究宀の前は宮厎健䞉先生の研究宀だった。私もずきどきお邪魔しおそこで倚くの新しい情報を埗るこずができた。和歌が奜きで、のちの䌚話で圌が叀今集の英蚳を少しず぀進めおいるこずも知った、宮厎先生の「䞇葉集れミ」に参加しおいた同孊幎の田蟺君ず芪しくなったのも、こうした雰囲気の䞭でだった。宮厎先生があるずき、お茶を飲むれミ生に「そのお茶は1001000円したんだよ」ずいかにもたのしそうに孊生たちに話されおいた。ゆっくり味わっおくれよ、そんなおだやかな雰囲気が研究宀にはい぀もあった。そうしたアットホヌムな雰囲気がどこの研究宀にもあった。䜐䌯先生は研究宀で、ずきどきれミ生にアルコヌルランプのサむフォンでコヌヒヌを埡銳走しおくださった。それがたたらなくおいしかった。それらの䞀぀䞀぀が、私の和光での埩掻の日々ずなった。宮厎先生ずある日二人だけで、お話したこずがあった。い぀だったか、なぜそうなったのか、今ではもう詳现を思い出せない。ただそのずきの先生のこずばは深く心に残っおいる。
先生は静かに蚀われた。「私は和光に来お初めおゆったりするこずができた」そういう内容のこずを䌝えおくださった。それが和光であった。宮厎先生も䜐䌯先生もそしお私も、れミ生の倚くが、どこかおだやかな陜だたりにいるようなあたたかさに包たれおいた。「埩掻」の日々は、決しお私だけではなかったずおもう。この新しい倧孊に集った若き孊埒の䞀人䞀人が、私が感じたような、あるいはもっずもっず倚圩な日々ず、぀ねに新しく出䌚っおいたのではなかったか。3幎から入った私には遂に未履修ずなった、䞀幎時のプロれミで、前期教逊科目で、䜓育のグルヌプ別のバレヌボヌル競技で、あるいは倏の日のプヌルで、私よりはるかに倧きな「奇蹟」を䜓隓しおいたのではなかったか。私は今遠く振り返りながら、知り合った幟人かの姿を思い返しながら、真実そうおもう。ある日研究宀に飛び蟌んできた䞀人が叫ぶ、「今日のカレヌには具が入っおいたぞ」そうなのだ、私も100円の玠ラヌメンを幟床食べたこずだろう、あのガタガタしたテヌブルで。脇では二人の男子孊生が、向かいあっお蚀っおいた、ごはんに玍豆だけをのせお、「これがいちばん䜓にいいんだよな」。和光のすばらしい日々よ、圢を倉えおもそれらが氞遠ならんこずを、切に祈る。あの写真は今も掲茉されるこずがあるのだろうか、若き杉山康圊先生が旗をかざしお孊生たちず和光坂を䞊っおくる、あの和光の若き日々を象城する写真を。だれもが繰り返し芋たであろう、杉山先生の腕高くひるがえる旗を。それらを䞻導し、静かに芋守り、文孊科のすべおから敬愛された近藀忠矩先生、和光が四ん床目の青春ずなった近藀先生が、今、和光から氞遠に去ろうしおいる。もうあの優しい笑顔を芋るこずができなくなるかもしれない。私の埩掻を芋守っおくださった先生、レポヌトを䞁寧に読んでくださった先生、酒井君ず田蟺君ず私の、新しい旅立ちを自宅で祝っお䞋さった先生、卒業蚘念に䞉人に新刊の岩波新曞『東京倧空襲』を莈っおくださった先生、それらのすべおが今消えゆこうずしおいる。駅ぞ向かう挆黒の空に、かなしみを隠したさびしさが、あった。1976幎4月30日、先生は 逝去された。近藀忠矩先生は、華埜井先生の読経に遂に芋送られるこずはなかった。華埜井銙柄先生は、1976幎4月26日、近藀先生に先んじお、逝去なさっおいた。お二人がなさった玄束を、和光倧孊に氞遠に残しお。

After
14.1982Coffee shop

14.1982Coffee shop1982幎喫茶店1979幎、私は勀めおいた党日制高校から倜間の定時制高校に転任し、和光倧孊人文孊郚人文孊専攻科にふたたび入孊し、文孊科の川厎庞之先生のもずで仏教兞籍を含む平安朝挢文孊を孊ぶこずずなった。先生の勧めで、合わせお人間関係孊科の西順蔵先生の䞭囜思想史も受講し、東京倖囜語倧孊で珟代挢語の初歩を孊んだ日々からの䞀぀の垰結をみずからに課すこずずなった。1971幎3月に人文孊郚文孊科を卒業したずきに芋い出せなかったみずからの䞻題を、32歳を目前に控えたこの幎においおも、私はただ芋い出せないでいた。ただ文孊科圚籍時に受講した䞭囜文孊の小野忍先生やロシア語の千野栄䞀先生にも再䌚できるだろうこずで、私に新しい方向が芋えおくるかもしれないずいうかすかな期埅も持っおいた。そしお文孊科圓時はノァレリヌの講矩を受ける力がなかった、華埜井先生のフランス語関係の講座も、もし可胜ならば受講しおみたいずいうおもいも抱いおいた。私は東京倖囜語倧孊で、詩人でフランス文孊者であった安東次男先生の文孊の講矩を受講し、ご自宅ぞも䌺ったこずがあったが、フランス語そのものはほが完党に独孊であり、初玚だけであったが、教えおくださったのは、華埜井先生ただお䞀人であった。しかし単䜍の取埗はできなかった。4幎ずなった私は、将来の進路がみえないたたに、圓面可胜であった教職に就くための講矩がただいく぀かが残り、教員の採甚詊隓も近づいおいたため、秋孊期からの語孊の授業はき぀く、3幎に線入孊埌の2幎間で卒業および教職のための講矩を受講するだけで粟䞀杯であった。私が華埜井先生からいただいたのは、フランス語初玚の教宀で私にテキストの音読が回っおきおなんずか読み終えお授業が終わり、れミを受けおいた俳諧史の䜐䌯昭垂の研究宀でれミの友人ず話しおいたずき、華埜井先生の研究宀に参加しおいた友人が、息を切らすようにしお研究宀に入っおきお、私に「田䞭、おたえの発音を先生がほめおいたよ」ずたるで自分がほめられたかのように、嬉しそうに話しおくれたこずであった。私も本圓に嬉しかった。高校時代から独孊で孊んできたフランス語を、フランス語の先生が認めおくださった。それは、先生が私にくださった、心優しい受講蚌明であった。私は1980幎に専攻科を修了し、同幎4月から1986幎3月たで人文孊郚の研究生ずしお、匕き続き川厎先生から平安朝挢文孊のご指導を受け、私自身ずしおも、平安朝の最柄、空海、埳䞀等の著述を少しず぀読み始めるこずずなった。専攻科・研究生時代に倚くの先生方から賜わったあたたかなご指導は、たさしく数えきれない。特に専攻科論文ずしお提出した「平安朝挢文孊の䞀考察 ヌ䞉教指垰に぀いおヌ」に関しお、䞭囜文孊科の小野忍先生が指摘しおくださった、論文に察するあたたかくしかし厳しい批評は、倚分生涯忘れるこずはないずおもう。それは私自身が論文を曞き進めながら、倧きな問題点ずしお認識しおいたが、それを論文執筆䞭に衚明するず、私の論文の根幹を再構成しないずいけないこずをみずから熟知しおいたからであった。論文提出の期限が迫っおいた。しかし小野先生の慧県は、論文䞀読埌、それをすぐに読み取られた。先生は、「田䞭君、研究宀に来ないか。芋せたいものがある」ずおっしゃられお、研究宀で先生ご自身が蚳され、昭和14幎1939幎に東京文求堂から刊行されたベルンハルト・カヌルグレン著の『巊傳真停考』の初版本を私に貞䞎しお䞋さった。「カヌルグレンの方法は䞀定皋床有効だが、過信しおはいけない」ずいうのが、私ぞの先生からの忠告であった。私は先生のおこずばを、論文を曞くずきは、あくたで自分に忠実に曞かねばならない、あるいはそうおっしゃられたかったのではなかったか、今ではそうおもっおいる。論文ずは、結論のためにあるものではない、先生は私に人生そのものぞの、指針をこめおそうおっしゃられたのではなかったか。ONO SHINOBU AND BERNHARD KARLGREN1969幎、私が和光の3幎に線入孊したずき、人文孊郚長宀の先生の前で、線入孊の自筆眲名をしたずきから、たた先生の研究宀で、近代の䞭囜文孊ず日本文孊に぀いおの特講を受講したずきから、すでに10幎が過ぎおいた。私が1971幎3月に文孊科を卒業し、郜立北倚摩高校で教員ずしお四苊八苊しおいた倏、先生からお手玙をいただき、その䞭には卒業時の立食パヌティヌに参加しおいた私を、先生が写しおくださった写真が同封されおいた。「田䞭君が写っおいるので送りたす」ず曞かれおいたずおもう。私はその手玙ず写真を、䞀人で悪戊苊闘しおいる私ぞの励たしず感じ、ただほんの少し前なのに、先生の懐かしさや優しさに、䞍芚にも涙が出そうになった。川厎先生は私の専攻科論文に぀いお、「途䞭たではどうなるかずおもったが、なんずかたずめたね」ず講評しおくださった。先生は私にい぀もそうした話し方をされた。平安時代の公卿の挢文の日蚘を少しず぀読み始めお、あるずき先生に、東京倧孊史料線纂所から刊行されおいた『倧日本叀蚘録』の䞭の倧曞の䞀぀であった、関癜藀原忠実の党五巻『殿暊』に挑戊しおみようずおもい、党巻をそろえお賌入し、先生に「あの本を読むこずはどうでしょうか」ず先生のお考えを䌺うず、先生は埮笑むような感じで「もう少し埅ったほうがいいね」ず䞀蚀だけおっしゃった。確かにこの本は歎史事象が際限なく倚出し、挢文が少し読めるずいうだけではどうにもならないものであった。先生ずの䌚話で、最も恥ずかしかったこずの䞀぀だった。先生の曞籍の読み方で、おもわず顔面蒌癜ずなるようなこずが幟床もあった。先生はい぀も静かであったから、こうした私の曞き方を、しかたないか田䞭君は、ずおっしゃるかもしれないが、䞀぀だけお䌝えしおおきたい。叀文曞講読の時間に空海の曞簡の解読で、その䞭に挢文で䜿われる返り点「レ点」ず同䞀の印が文面に付されおいお、先生も「レ点ず同じだね」ず説明されたこずがあった。講矩埌、研究宀で先生にレ点の初出等に぀いお尋ねたずき、先生は「初出かどうかはわからないが、埡堂関癜蚘に出おくるね」ずおっしゃったので、私は偶然にもその頃、藀原道長の日蚘である同曞を毎日カバンに入れお持ち歩き少しず぀読むようにしおいお、そのずきも党䞉巻を持っおいたので、先生に、「今関癜蚘は䞉巻ずも持っおいたす」ずお䌝えするず、巻数は今は倱念したが、先生がその巻の䞀぀をおっしゃたので、カバンから出しおお枡しするず、先生は頁を二、䞉枚めくり、「田䞭君、ほらここだよ」ずレ点が打たれた道長の挢文の䞀節を芋せおくれた。埡堂関癜蚘党䞉巻は総頁数で、党文句読点だけが打たれただけの、1000頁近くのものであり、私はその1頁を読むのにも必死で苊闘しおいた頃であった。その難解な曞籍のたった䞀぀の印が蚘され郚分を先生は即座に指摘されたのであった。このずきは私はみずからの非孊などを超えお、たさしく顔面が蒌癜になった。先生がお持ちになる、孊問に察する凄絶な高みであった。川厎先生ず小野先生は本圓に仲が良かった。川厎先生に、小野先生が私に、先生ご自身が蚳されたカヌルグレンの『巊傳真停考』 を貞しおくださったこずをお䌝えするず、先生はい぀ものほほえみをもっお「小野さんは蚀語の達人だからね」ずおっしゃった。小野先生は、1930幎24歳でフロむド・デルの『アプトン・シンクレア評䌝』を蚳され、1938幎には改造瀟からスノァン・ヘディングの『銬仲英の逃亡』を翻蚳されおいる。1979幎に小沢曞店から刊行された『道暙 䞭囜文孊ず私』においおは、戊前の䞭囜で満鉄調査郚に勀務しおいたおり、ロシア人家族ず知り合いになり、その嚘さんにロシア語で孊習を手助けされたこずを述べおおられる。しかし先生の真骚頂は戊埌の1948幎、千田九䞀氏ず始められた明代の小説『金瓶梅詞話』を、最初は千田久䞀先生ずずもに、最終的には先生お䞀人で1962幎に完蚳され、平凡瀟から䞭囜叀兞文孊倧系ずしお党3巻で刊行されたこずに尜きるであろう。私はその原本を未読の状態で申し䞊げるこずは本来は控えるべきであろうが、䞭囜明代の口語さらにはその時代の方蚀による難解極たるずされた本曞を十数幎にわたっお粟読し蚳了されたこずに敬服せずにはおれない。先生は晩幎さらにその改定を考えおおられたようで、蚀語ずの挌闘を私は目の圓たりにするおもいであった。小野忍先生によっおなされた『金瓶梅詞話』蚳了に぀いおは、倉石歊四郎先生の以䞋の評蚀があったこずが、小野先生の最晩幎の曞である『道暙 䞭囜文孊ず私』小沢曞店 1979幎、の䞭に次のように蚘されおいる。「 『金瓶梅』の䜜者が誰か文孊史にずっお難題であるように、その蚀語も難解を極めおいる。これではせっかくの蚘念碑も無字碑に等しい。その意味でこの翻蚳はロれッタストヌンの解題にも䌌た意味を持぀。倉石歊四郎氏」1979幎、私が和光の専攻科にもどった幎、先生は元代の元曲および宋代の詞をれミで取り䞊げられたこずを、私は圓幎の講矩芁目で知った。ある日たたたた先生ず垰りの電車でご䞀緒するこずがあり、先生に今幎は難解な元曲ず詞を遞ばれたのですねずお尋ねするず、先生は、ああした難しいこずもしおおかないずね、ずおっしゃった。私はそのこずばを、和光の䞭囜語科の若きれミ員ぞの先生からの貎重な莈り物ずしお受け取ったが、埌幎、先生の東倧での恩垫、塩谷枩先生が日本における詞の研究の先駆者であったこずを知った。先生はその孊統を和光の若きれミ員たちに蚗したのだず、今の私は理解しおいる。この電車での先生ずの䌚話が、先生ずお話しした最埌ずなった。1980幎秋、お元気であった先生は急逝された。青山斎堎でなされた先生の葬儀では、川厎先生が葬儀委員長ずしお、檀䞊䞭倮に粛然ずしお立たれおいた。1982幎の秋に、東京倧孊出版䌚から『川厎庞之歎史著䜜遞集』党䞉巻が刊行されるこずずなり、私もほんの少しだけその線集のお手䌝いをさせおもらった。今その遞集の凜に付された垯を抄出する。「 川厎庞之歎史著䜜遞集党3巻四六版/各五〇〇頁/定䟡各䞉二〇〇円䞃䞖玀から䞀二䞖玀に至る日本叀代䞖界の営みを、叀代人の哀感ず生きざた、理想ず珟実の亀錯のなかに芋いだし。、倚面的か぀立䜓的に描きあげた、珠玉の名篇の数々を党3巻に集成。第1巻 蚘玀䞇葉の䞖界  解説・笹山晎生第2巻 日本仏教の展開  解説・倧隅和雄第3巻 平安の文化ず歎史 解説・網野善圊」著䜜遞集線集の最終期に、遞集の抂芁を瀺すパンフレットが出来䞊がり、私にも知人等ぞの配垃のために幟郚かが送られおきた。和光の先生方等にはすでに郵送されおおり、倧孊では芪しい友人や芪しい倧孊職員の方々にお枡ししたが、私は先生方のうち、日本䞭䞖文孊の山本吉巊右先生だけには盎接お枡ししたいずおもい、先生の研究宀に䌺った。折よく先生はお䞀人で圚宀しおおられ、私が「おかげさたで出来䞊がりたしたので」ずお䌝えするず、先生は本圓に嬉しそうに、「良かったね」ずおっしゃっおくださった。その埮笑みが今も忘れられない。パンフレットには䞉人の先生方の掚薊文が掲茉されおいた。日本叀代文孊で特に叀事蚘の研究で著名であった西郷信綱先生、日本䞭䞖法制史で優れた論考を著わされおいた䜐藀進䞀先生、そしお立呜通倧孊で日本叀代文化史で倚圩な論鋒を瀺されおいた林屋蟰䞉郎先生であった。私の䞍勉匷を瀺すこずずなるが、山本先生は西郷信綱先生を䞭心ずした研究䌚で長く研究を続けおおられたこずをのちに知った。埓っお西郷先生の掚薊文およびその抜粋が川厎先生の著䜜遞集第1巻の垯文ずなるこずは、こずのほか嬉しかったのではなかったかず、おもわれる。山本先生から、私は文孊科3幎のずきに平家物語の講読を受講したのみで、先生がその埌展開された先鋭的な口頭文化の実蚌的研究に぀いおは、たったく無知であった。山本先生のもう䞀人の垫が廣末保先生であったこずも、私はのちに知った。法政倧孊囜文孊䌚から1990幎に刊行された『日本文孊誌芁』第42巻に掲茉された「座談䌚廣末保氏の問題意識をめぐっお」においお、山本先生は廣末保先生の著䜜に関連しお、山本先生の生涯の䞻題の䞀぀ずなる説教に぀いお、廣末保先生の『挂泊の物語』の䞀節に觊れお、以䞋のように発蚀されおいる。「説教の埒ずいうのは、物語ずいう圢匏を䞍可欠の圢匏ずしお持ち歩いおいる挂泊芞胜民ずいうのが、その「実䜓」だずいうのですね。ここでも「実䜓」ずいう蚀葉の意味が䞀床解䜓されお、新たにその意味が぀くられおいく。そしお、物語ずいう圢匏ず挂泊芞胜民ずの関係性をずらえおいく。その関係性の䞭にこそ、説教の埒の実䜓があるのだ、ずなっおゆく。」フィヌルドワヌクに぀いお、山本先生は次のように語っおいる。「廣末さんはフィヌルドワヌクはやらないのですよ。旅をするのですよ。そういう感じでした。旅行に関しおは。䞭略なぜかずいったら、われわれ自身の䞭に、昔から䌝わっおきた䌝承的なものが即時的にあったわけですよ。だから近代䞻矩をもう䞀床批刀できるようなもう䞀぀の栞が他方にあった、ずいう気がしたすね、昔のこずを蚀えばね。」山本先生は、口頭文化に぀いおは講挔「もう䞀぀の物語」の末尟で、次のように述べられおいる。「口頭文化がただいきいきず機胜しおいた時代には、語りは、今日いうずころの文芞でも芞胜でもなく、過去の霊ず密接にかかわりながら、過去を知るこずのできるひず぀の回路であった。そしお、それらが語られる堎も特有の意味をもっおいた。䞭䞖の時間や空間は、今日のように均質ではなくお、それぞれが固有の意味をもっおいたのである。」
川厎庞之先生の歎史著䜜遞集党3巻が刊行されたあずの1982幎の秋か冬近くであったずおもうが、ある日和光坂を䞊る手前で、私は坂を䞋りおいらした山本先生ず出䌚った。先生に挚拶をするず、先生は「田䞭君、少しお茶を飲んでいかないか」ず私を誘っおくださった。そんなふうに䞋校前に突然和光の先生からお茶を誘われたりしたのは、倚分初めおであったずおもう。今もあるかどうかわからないが、1982幎にはただ、和光倧孊が開孊したころからあった喫茶店ずも呌べないような小さなお店があった。坂を䞋りおくるず右偎で、2、3段の石段を䞊るずドアがあっお䞭は23人でいっぱいずなる小さなやや暗いお店だった。先生が奥に坐られ、私が手前に坐った。先生がなにを語られ、私がどのようにお答えしたか、今はもうなにひず぀憶い出すこずができない。先生がなにか質問をなさったのでもない。向かい合っお、私は、静かにコヌヒヌを飲たれる先生に盞察しおいた。あるいは日々の日垞に觊れたお話だけであったのかもしれない。ただ先生の静かなたたずたいが今も私の内に残る。先生の安堵のひずずきであったのかもしれない。研究生であった圓時の私は、先生の講座をたったく受講しおいなかった。川厎先生の著䜜遞集に぀いおか、あるいは掚薊文を曞かれた西郷信綱先生のこずが先生の内にあったのかもしれない。あるいは、田䞭君ご苊劎さたずいうこずであったのかもしれない。そのずきの優しい先生の姿が今も忘れられない。私は1986幎3月で研究生を蟞し、そののち先生ずお䌚いするこずはもうなかった。先生は退官されおたもなく、2007幎に逝去された。72歳であった。若き日の盟友、華埜井先生が1976幎37歳で逝去されおから、31幎が過ぎおいた。
LETTER TO THE LIBRARY SHORT AUTOBIOGRAPHY BETWEEN 1969 AND 1986

15.2003Silk Road

15.2003Silk Road2003幎絹の道2002幎の秋、私は肺炎ずなり、青梅垂立総合病院に2週間ほど入院した。幞いに入院埌の経過は順調で、1週間埌には呌吞も䜓調もほが平垞に戻ったが、䜓力の消耗があったのか䞻治医の先生は慎重で、退院たではもう1週間を必芁ずした。私は窓倖に奥倚摩の山々を芋ながら、ようやく芋いだした蚀語の䞻題に぀いお、ただ䜕も曞き䞊げおいないこずを痛切に感じおいた。退院したら、たず䜕よりもそのこずを優先しなければならないずおもいながら、曞かれるべき論文の片蚀や字句を繰り返し点怜しおいた。論考の骚子は、少しず぀であったがたずたり぀぀あった。蚀語の本質ずは䜕かを远求するこずが私の論考の䞻題であるこずに察しおは揺るぎないものがあったが、蚀語そのものの深淵ず広倧を考える䞭で、私は今たでの自己の集積を螏たえお、挢字を䞭心に眮き、枅代の粟緻な蚀語孊である小孊を揎甚しながら、普遍的な文字論をめざし、そこからさらに蚀語そのものぞず迫る方向を考えおいた。その結果、退院時たでに、私は甲骚文ずしお兞型的な圢態ず意味を有するいく぀かに぀いお、それらの文字の䞭に時間が内包されおいるこずを、王囜維の論文等を参照しながら単語論ずしおたずめるこずを第䞀の論考ずし、それを螏たえお、次に時間を内包する単語が連接するこずによっお文が圢成されるこずずなる統語論を第二の論考ずする方向を考えた。しかしそれらを、蚀語哲孊的な方向で進めるのではなく、あくたでも物理的な怜蚌可胜な方向で蚭定したいずいうのが、私の埓来からの倢であった。高校時代から私の内に存圚する理論物理孊ぞのあこがれは、䟝然ずしお私の思考の䞭栞をなしおいた。そしお今はフランスのブルバキ集団 Nicolas Bourbaki が1960幎代たでに䜓系化した壮倧な代数幟䜕の初歩を私は孊んでいた。和光での研究生時代、千野栄䞀先生から教えられたプラハ蚀語孊サヌクル Linguistic Circle of Prague のセルゲむ・カルツェノスキむ Sergej Karcevskij の「蚀語蚘号の非察称的二重性」Du dualisme asymmetrique du linguistique 1929 ずいう論文が、私の䞭で去来し続けおいた。䟋えお蚀うならば、私はこの高峰のはるか䞋方の裟野にベヌスキャンプを蚭営したばかりであった。「蚀語蚘号の非察称的二重性」に぀いおは、か぀お短くたずめた文を曞いたこずがあるので、以䞋に再掲する。『冬ぞ』To Winter 2015 Chapter 16.TO WINTER 2015「察称性。それはか぀お蚀語孊のず繰り返し話した内容だ。1920 幎代のプラハ。雑誌 TCLP に茉ったカルツェフスキむの論文、 「蚀語蚘号の非察称的二重性」。蚀語が保持し続けるずころの、それによっお蚀語が蚀語であり続けるずころの、絶察的に矛盟する柔 構造ず硬構造の共存。蚀語においお二重に内圚し続けるだろう氞遠の矛盟。蚀語がかくも柔軟でかくも堅固でいられるのはなぜか、そ のほずんど絶察的に矛盟するかずもおもわれる二重性をカルツェフスキむは提瀺した。がその最埌の本の䞭でただ䞀人倩才ず称した 蚀語孊者、セルゲむ・カルツェフスキむが残した癜眉の論考。なぜこの共存が可胜なのか、この二重性に察する敎合的な理解は今もなお、たぶん提出されおいない。」
この文でCず蚘されたのは、千野栄䞀先生であり、C の最埌の本ずいうのは、1994幎に䞉省堂から刊行された先生の『蚀語孊ぞの開かれた扉』Janua linguarum reserata のこずである。カルツェフスキむの論考は、蚀語孊においお難攻ずされ、ほずんど手を付けられないでいた意味に぀いおそのマクロな構造を簡朔に二分しお瀺した画期的なものであった。2003幎に入り、私は䞊述した二぀の方向をほが䞊行しおたずめ始めたが、単語論ず統語論の二぀を繋ぐ蚀語の論理を構築できないたた、春を迎えた。この幎も近幎続けおきた新期県湯沢での春スキヌに、二人の子䟛が孊校が春䌑みになったので出かけ、子䟛ず家内はそれぞれの力に応じたスキヌを楜しんだが、私は䞀人ホテルに残り、私の論考にどうしおも必芁であった、単語から統語ぞの連結郚分構築のための芋えない論理を远うこずに集䞭した。結果的には、华っお䜕も参考ずなる資料を持っおこなかったために、湯沢に到着した翌日、私はほずんど筆をおくこずなく曞き進め、単語論ず統語論を結ぶ原理的な論理をたずめるこずができた。この文章は、走り曞き的でありか぀未完であったために、二぀の論考を曞き終えた埌も、Web 䞊に Upload するこずはなかったが、2015幎、あらためお子现に読み盎しおみるず、この文章の䞭に私の蚀語に぀いおその埌曞き続けた䞻題のほずんどの萌芜を認めたため、あらためお短いたえがきを付し, Manuscript of Quantum Theory for Language 「蚀語の量子論のための草皿」ず題しお Upload するこずずした。このたえがきにおいお「恩垫」ずしお蚘されおいるのは、和光でれミを受講した䜐䌯昭垂先生のこずである。MANUSCRIPT OF QUANTUM THEORY FOR LANGUAGE東京に戻っおからしばらくした四月ごろ、その頃時々芋おいた囜立情報孊研究所のSite を開くず、研究所ず文郚省の共催で、Silk Road に関する囜際シンポゞりムが奈良で開催されるこずの予告ずそこで発衚する論文の募集が掲茉されおいた。私は湯沢で曞いた草皿を元に二篇の論考を曞き䞊げおいたので、そのうちの統語論に関する論考を、応募論文ずしお提出するこずを決め、囜際シンポゞりムであったため、論文は英文衚蚘を原則ずするずされおいたので英語ぞ翻蚳するこずずし、䞀郚をより論理的に明瞭にするために添削し、5月の提出期限たでに無事応募するこずができた。その論文はQuantum Theory for Language ず題され、蚀語を物理的な量子ずみなし、その結合によっお文が圢成されるずいうものであった。QUANTUM THEORY FOR LANGUAGE蚀語を量子ずしお扱うずいうこずに、垞識的な䞍安を感じながらも、その方向に私は未来的な展望を感芚的に確信しおいたので、ほずんどためらうこずはなかった。幞いにこの論文はシンポゞりムの蚀語文孊郚門の4線の口頭発衚論文の䞀぀に採甚され、私はその幎2003幎の12月23日ず24日 に奈良東倧寺の向かっお右奥にある奈良県立公䌚堂で行われたシンポゞりムで 23日に発衚するこずずなった。同郚門の発衚者は、北海道倧孊教授ず東掋文庫員および䌁業の研究者ず私の4名であった。23日午埌の口頭発衚を終えるずさすがに安堵した。二日目の24日の午埌、メむン䌚堎ずなるホヌルに行くず各囜の研究者が集い、さたざたな蚀語が話されおいた。シンポゞりムの䞻題からか、䞭倮アゞアから出垭された方々が特に倚いようであった。招埅講挔から始たり、郚門別の講挔があり、口頭発衚、パネル発衚、関連情報の掲瀺等が公䌚堂党䜓で行われおいお、延べ参加数は400名近くず䌝えられた。私にはこの䌚堎そのものが、珟代のSilk Road の終着のようにおもわれた。私の論考の䞭心ずなる量子は物理孊の抂念であるが、数孊から芋おも非垞に魅力的なものであったため、数孊における矀論に取り蟌み量子矀ずみなしお定矩するこずが、1980幎代にグリンフェルト V. G. Grinfeld によっお提唱された。Hopf algebra and the quantum Yang-Baxter equation. 1985 がその嚆矢ずなる論文である。同幎、日本の神保道倫も論文 A q-difference analogue of Ugand the Yang-Baxter equation. 1985 を発衚し、この二者によっお、物理孊ず数孊が架橋されるこずずなった。量子を数孊で厳密に甚いるこずが可胜ずなっおきたこずが私にも明瞭ずなっおきたのは、さらに埌幎ずなる2000幎代埌半であった。私の量子に察する感芚的な方向はこうしお完党に厳密な数孊的定矩によっお確定されたものずしお、䜿甚するこずができるようになった。私はこの量子をさらに幟䜕孊的に倉圢し、物理孊の熱量等を数孊に導入したペレルマン Perelman 等の業瞟を揎甚しお自然蚀語から信号、さらにその元ずなる゚ネルギヌ芁玠ぞず拡匵させた蚀語衚象ずその応甚ぞず進み、人間の神経を量子的に倉圢させお応甚科孊ぞず導こうずする、Quantum-Nerve Theory を2018幎から2019幎にその準備的考察をほが終了しお、珟圚はその数孊的構造を代数幟䜕的に進展させる方向に至っおいる。あわせお神経理論の骚栌を䜜った1980幎に35歳で逝去されたDavid Marr の著䜜 Vision、副題ずしお「芖芚の蚈算理論ず脳内衚珟」等の重芁な方向も孊び続けたいずおもっおいる。QUANTUM NERVE THEORY2004幎に戻ろう。2004幎1月に情報孊研究所から、口頭発衚論文等を冊子ずしお刊行するので完成原皿を送られたし、ずのメヌルがあり、私は口頭発衚原皿をさらに添削しお送付した。5月には論文等が掲茉された厚い冊子が関係者に届けられた。埓来の原皿ず区別するために、冊子䞊の衚題は、Quantum Theory for Language Synopsis ずした。
1967幎に倖語に入孊したずき、私はアゞアの蚀語からペヌロッパの蚀語ぞ向かう倧きな方向を考えおいた。それから40幎近くを経お、私が初めおみずからの䞻題をたずめた論文を掲茉した冊子が日本から䞭倮アゞア、そしお西欧ぞず送られるこずずなった。Silk Road は、今も続いおいるのかもしれない。それが論文を曞き䞊げた私の玠朎なおもいだった。


16 .2015 Story To Winter 16.2015Story To Winter2015幎物語 『冬ぞ』2003幎から曞き続けおきたLanguage Universals 蚀語の普遍性に関するPaper 論考が、みずからの䞭で䞀段萜したず感じた2012幎冬、65歳ずなった私は、蚀語を公理ず定理から導く、青春の日々から求め続けおきたものではあるが、ある点では非情な数孊の䞖界そのものから䞀歩離れお、そこに生きる人間をあたたかく描いおみたいずいうおもいが匷くなり、自䌝的な芁玠を含んだ䞀぀の青春の可胜性を、ずもに孀独ではあるが決しお孀立しおはいない二人ずしお描いおみたくなった。
䞻人公の A も再䌚した I も、矜を痛めたヒペドリも、みなある意味では䜜者そのものの分身であった。物語ずしお完成しおいるかどうかは玠人の私には刀断できないが、私はこの物語を曞きすすめるうちに、い぀か、青春の日々にさたよう䞭での、救枈ずも呌ぶべきものを衚珟したいずおもうようになった。人はみな生涯で、倚くの人に出䌚い、おもいがけない支えを受け、䞍意の別れに接しながら、みずからの生の䞻題をい぀かは芋い出そうずする旅を続けおきたのだろう。私もたたその䞀人であった。人は決しお匷いずきばかりを続けるこずはできないだろう。だからそこでは、気づかないうちにどこかで救枈ずも呌ばれうる䜕かに出䌚うのではないだろうか。それは決しお匱いからではなく、あるいは匱いから求めるのでもなく、生きるこずそのもののうちに、倚分必然ずしお、救枈は芋知らぬうちにもたらされるものずしお、きっず存圚しおいたのではなかったか。私はい぀か自然にそんなふうにおもうようになっおいた。物語は、颚に寒さをおもう秋の日々からはじたり、冬のおずずれを感じさせる二人の、光あふれる䞀日で終わる。すべおの人が、この日の二人であるかのようにず、私はねがう。「二人に今、恩寵のように冬が来る。」私はこの物語を、そう結んだ。
TO WINTER

17.2018Language

17.2018Language2018幎蚀語あるずき、人から、あなたはどうしお蚀語のこずを远い続けるのですかず尋ねられ、その堎ではすぐにはうたく答えられなかったこずがあった。しかしその埌もそのこずはやはり気になり、しばらく考えおいるうちに、その問いは、あなたは䜕を孊んできたのですかずいう問いず、ほずんど重なっおいるこずに気づいた。私はこれたで、蚀語を䞭心ずした本圓に狭いこずしか孊んでこなかったからである。私の青春は、別の面では、近代ずはなにかず問うこずからはじたったようにおもわれる。私がそのずき、そのこずを 問うこずができたのは、䞭囜ずフランスずいう堎があったからであった。䞭囜にあっおは、私にずっおの近代ずは、枅朝の粟緻極たる文字孊であった。フランスの近代は、ランボヌやノェルレヌヌやラフォルグに代衚される象城詩であった。しかし二぀ずも私にずっおは、蚀語ずいう倧きな壁があった。䞭囜の堎合は、文字孊・音韻孊を含む叀代挢語、いわゆる経孊の膚倧な遺産ずの栌闘があった。フランスの堎合は、語孊も勿論であったが、根源的に私にずっおは、詩そのものがよくわからなかった。たずえばむギリスの詩に぀いおは、高校時代から少しづ぀芪しんできおいたが、その匱匷の韻埋の矎しさはいくら音読しおみおも、私には心地よいなどずは感じられなかった。のちにシェむクスピアの戯曲、「ヘンリヌ4䞖」の冒頭を読んでいたずきに、はじめおむギリスの詩の韻埋の矎しさを感ずるこずができた。このずきは本圓にうれしかった。それに比しお、フランスの詩はその音韻埋が開母音の日本の叀来からの韻埋ず近かったために、音数埋による詩の矎しさは、高校時代にフランス語を孊びはじめたずきから、実感するこずができた。しかし韻埋ず象城の盞関ずいうようなフランスの象城詩の根幹にいたっおは、圓然ながら私のレベルをはるかに超えるものであった。これものちに、鈎朚信倪郎先生の『フランス詩法 䞊』に接したずき、先生が「埌蚘」で著䜜の完成に1924幎から1950幎たで26幎を芁したこずを知り、みずからの無知がかなしいほどにおもわれた。埓っお私はもう十分にみずからの非孊を感じながらも、蚀語ぞの別の経路を暡玢する日々が続くこずずなった。私がその䞭で埗た結論は極めお単玔なものであった。蚀語の探究がいずれにしおも困難であるなら、蚀語の本質ずはなにかずいう最も根源ずなる問いこそが私の孊びの䞭心ずなるのではないかずいうこずが、和光での研究生時代の埌半、千野栄䞀先生の『構造蚀語孊』を受講する䞭でほずんど確信に近いものずなっおいった。ある日講矩が終了したあず、私は千野先生ずドアの前で話したこずを昚日のようにおがえおいる。倚分研究生の終了が間近ずなった1985幎の秋頃ではなかっただろうか。先生は私に「今䜕を考えおいるのか」ず尋ねられた。私はそのころ、Godel およびその盟友であった竹内倖史の集合論に䟝拠しながら、蚀語、正確には単語の意味の内郚構造を集合論をもずずした数孊で蚘述したいずいう、ほずんど倢に近いようなこずを考えおいたので、それを玠盎に述べるず、先生は本圓に怒ったように、「それはWittgenstein のようなものがやるこずで、私たちがやるこずではない」ず私に話された。そのこずが忘れられない。しかし私は、結局その倢を远い続けた。そしお珟圚も倚分その䜍眮の延長にいる。先生がおっしゃったように、それはたしかに倢であった。しかしその倢を私に玡いでくださったのも先生であった。プラハ蚀語孊サヌクルの存圚ずカルツェノスキむの䞀篇の論文「蚀語蚘号の二重性」。先生がそれらを私に提瀺しおくださらなかったら、珟圚の私は存圚しない。COFFEE SHOP NAMED CALIFORNIAだから、どうしお蚀語のこずを远い続けおきたのかず問われるず、蚀語がそこにあったから、ず答えるしかない。山がそこにあるように。そんなこずを曞いお、私は問うた人 Y に, ある日メヌルで送った。その党文を、References を陀き、ほずんどの固有名詞を明瞭に衚蚘しお、以䞋に再掲する。
「 Letter to Y. Of Broad Language 4th Edition
Dear Y.,

1. 蚀語の定矩から蚀語研究の方向決定ぞ
1.1私は日本語の「研究」ずいうこずばはあたり䜿わないのですが、ここでは蚀語に぀いお考えるこずを簡単に蚀語研究ずいうこずばで瀺したすず、質問は、蚀語研究の目的 aim ず蚀語研究の応甚 application ずいうこずになるかず思いたす。ここで蚀語ずは䜕か、ずいうこずになりたすず、䞀般的には、蚀語は、人間がその心の状態をかなり粟密に䌝達する䞀方法、ずいうようなこずになるかず思いたす。ここでは通垞、人間が話し聞くこずばが想定されおいたす。いわゆる自然蚀語 natural language です。しかし私は、みずからの蚀語研究 research on language においお、こうしたいわゆる蚀語の定矩を行っおいたせん。私の研究はもちろん、自然蚀語を含みたすが、もっず広範囲なものです。しかも私の考えでは、蚀語を自然蚀語で定矩しおも、あいたいなものにしかならないず、思いたす。数孊基瀎論で超蚀語などが提唱される所以です。
1.2私はですから、自らの研究を、蚀語孊ずは呌ばず、英語でも linguistics, philology などの甚語を甚いおいたせん。これらの甚語は、自然蚀語を䞭心にしおいるからです。私の堎合、もっず広範囲ずなりたすので、ただ、research on language などず曞いおいたす。この広い蚀語、私の甚語ではBroad Languageずなりたすが、これに぀いおは埌述したす。それで、そうした未定矩なたたで、混乱などは起こらないかずいうこずですが、私の堎合、曞かれた内容で、私が蚀う蚀語の状況が倚分わかりたすので、それ以䞊の、あいたいな定矩は甚いないこずにしおいたす。甚いるのは䞻に、数孊ですから、その公理、定理などによっお、築かれおいる䞖界が私が瀺す蚀語ずいうこずになりたす。数孊はギリシャ以来、しばしば5000幎の歎史などず曞かれたすが、長い歎史の䞭で、掗緎されおきた結果を有しおいたす。よく確率や統蚈の分野で、この結果は1億回怜蚌したから、倚分倧䞈倫だなどず䜿われたすが、それでは1億1回目に怜蚌したしたずき、䞍具合が出るかどうかは、保蚌されたせん。
1.3数孊は絶察的な保蚌がなければ成り立ちたせん。それが蚌明 proof ずいうこずになりたす。しかし「完党な」ずいうこずばは普通甚いられたせん。Kruto Godel が「数孊に内圚する方法を甚いお数孊の完党性を蚌明するこずはできない」ずいう䞍完党性定理 Incompleteness theorem を1928幎に蚌明しおしたっおいるからです。今では岩波文庫でその翻蚳も出おいたすが、私もその党容は今もよく理解はしおいたせん。蚌明も幟皮類かで読みたしたが。倖郚から芋るず䞍安のようにも芋えたすが、数孊自身は、別にこうした定理があっおも揺るぎたせん。
1.4次にたずえば、蚀語においお、私が距離ずいうこずばを䜿うずしたす。距離ずいうこずばそのものを、自然蚀語で厳密に定矩するこずはかなり難しいでしょう。蚀語空間などずいうこずばも䜿われたりしたすが、空間を定矩するのは、自然蚀語ではやはりかなり困難でしょう。蚀語の倉化などずいうこずばもよく䜿われたすが、どこからどこぞどのように倉化するのか、倉化するずしたらその実䜓はなにか、実䜓がなければ、その倉化ずいうこずそのものが無意味になりたす。たたそもそも倉化ずはなにかなどず考え始めるず、もはや収拟が着かなくなりたす。Wittgenstein の有名な蚀葉に、「哲孊は誀解の歎史だ」ずいうのがありたすが、蚀語の曖昧性の䞊に、砂䞊の楌閣のようなものを築いおきたようにも思えたす。基本的に蚀語を蚀語で定矩しようずしおも、困難が生じたす。委现は省略したすが、特に1970幎代以降、数孊基瀎論の分野で進展がありたす。2017幎倏 に、竹内倖史ずいう数孊基瀎論の日本の Pioneer が死去したした。私も圌から倚くを孊びたした。『数孊セミナヌ』2018幎2月号が圌を特集しおいたす。私にはすごくおもしろかったです。しかし私は哲孊を吊定しおいるわけではありたせん。逆に私の根幹は哲孊から掟生しおいるずも考えるからです。
1.5このようなわけで、私は蚀語の Basic なものを、蚀語で蚘述するこずはしなくなりたした。こう蚀うず簡単ですが、私の堎合、ここにたどり着くのに、20代から40代たでかかりたした。1970幎代の終わり、倚分1978幎の倏䌑み教員でしたから31歳のずき、今も東京にありたすが、東京蚀語研究所の研究応募論文に取り掛かったこずがありたした。別に賞を埗たいずかずいうこずではなく、そういうこずをきっかけに、自分の課題を確認したかったからです。内容は蚀語における文ずは䜕か、ずいうこずで、珟圚考えおいるこずの準備段階のようなものを自分なりにたずめようずしたわけです。方法は、数孊の集合論ず数孊基瀎論を甚いようずしたした。結論的には、曞き始めるずすぐに自分の䞭の圓時の集積では党く自分が目指すものが曞けないこずを玍埗し、この蚈画は攟棄されたした。ちなみに欧米では数孊基瀎論は数孊の䞀郚門よりも、論理孊の䞀郚門に䜍眮づけられおいたす。私もその方がよいず思いたす。
1.6この時䞭止したのはなぜか。私の蚀語ず数孊に関する知芋が少なく、胜力も䜎いずいうこずは圓然ですから、それ以倖を挙げたす。数孊の集合論を䞻に甚いようずしたが、圓時のその分野の数孊の成果だけでは倚分耇雑な蚀語の状況を凊理できない。数孊基瀎論は論理の展開を远うものであっお、蚀語そのものの根源に迫るこずは圓時の成果ではできない。蚀語党䜓は広倧で、私の䞭で蚀語のどこに焊点を圓おお論を進めるのかが、確定しおいない。などがおもな䞭止の理由でした。
1.7私は1979幎32歳で倧孊に戻り、蚀語孊の千野栄䞀ず再䌚し初めお䌚ったのは1969幎、ロシア語の先生ずしおでした、そこでおもに1920幎代のプラハ蚀語孊サヌクルの状況を詳しく教えおもらいたした。その䞭でも Sergej Karcevskij の存圚が圧倒的に私の䞭に入っおきたした。千野が、最晩幎の著曞『蚀語孊ぞの開かれた扉』の䞭でただ䞀人倩才ず呌んだ圌は、蚀語の二重性を指摘したした。蚀語はやわらかく柔軟に倖界のものを吞収するが、同時に匷固で頑䞈な構造を持っおいるずいうのです。この矛盟するような二重性の䞭に、蚀語の本質があるずしたのです。これは倧きく蚀えば、意味論の䞀郚をなすのですが、この意味ずいう蚀語においお最も重芁なものを、圓時の研究は、そしお今もなお、難しすぎるずしお、棚䞊げし、もっず簡単な音韻等の粟緻な構築に向かいたした。䟋えば1950幎代以降の、アメリカ構造蚀語孊などがその代衚でしょう。それ以降の Chomsky の生成文法も意味はほが陀倖し、文法の構造を䞭心ずしお探りたした。こうした歎史進行の䞭ではやや䞀人、突出的であった Edward Sapir から、しかし私は倚くを瀺唆されたした。Drift ずいう抂念です。圌によっお蚀語ず運動、すなわち蚀語の時間的芁玠が浮かび䞊がるのです。これはのちに私の䞭で Perelman の存圚ず結び぀いおいきたす。結局い぀たで経っおも、ロシア語は䞊達したせんでしたが、ロシア語ぞ愛着は今も深く、昚幎久しぶりにロシア語文法の小冊子を読みたした。むかし、癜氎瀟のクセゞュ文庫にあった文法もよかったですが、今回のDover Publications の Brian Kemple の本は簡朔で重芁郚分は詳现であり玠晎らしいものでした。著者はたたP.94で次のように述べおいるのが印象的でした。"the definitions do not pretend to be complete, or to settle points of interpretation that grammarians have been disputing for the past several hundred years."
1.8意味は蚀語の最も重芁なものの䞀぀であるにも関わらず、この100幎䜙りの蚀語孊においお、垞に陀倖されおきたした。第二次䞖界倧戊埌、アメリカなどで䞀般意味論ずいう分野が䞀時拡がりたすが、これは蚀語が瀟䌚の䞭でどのような圹割を果たすかずいうような、Macro なもので、やがお瀟䌚孊や人類孊の䞭に吞収されおいきたす。䟝然ずしお意味そのものは未開拓の分野でした。私の堎合、哲孊的なものは、Wittgenstein の鋭い哲孊批刀怜蚌をすでに螏たえおいたすので、これに Karcevskij が加わるこずによっお、ほが準備が敎っおきたした。すでに察象は挢字および挢字を䞭心ずした䞭囜近代のきわめお厳密な蚀語孊小孊で進めるこずを考えおいたしたので、あずは曞蚘方法ずしおの数孊の自分なりの掗緎が課題ずなりたした。
1.9幞いに1980幎代ごろから、数孊が飛躍的に発展し、幅広い分野に応甚される時代がやっおきたした。岩波曞店はほほ30幎近くをかけお、数孊の叢曞を、入門、基瀎、発展ずいう順に敎備しおきたした。共立出版も䌝統的に叢曞を持っおいたしたので、やはり様々な数孊の珟代的な成果を出版し続けお、珟圚も進行䞭です。私は今、「数孊の茝き」シリヌズを愛読しおいたす。或る数孊者が、察談の䞭で、「今はやっず数孊が様々な分野の問題を蚘述する蓄積ができたしたね」ず話しおいるこずに象城されたすが、私が1970幎代に䞭止したこずを、今床は豊最な数孊の方法を自由に遞びながら、自分の問題を衚蚘できるようになりたした。ここに哲孊-Wittgenstein、察象-王囜維などの小孊、目的-Karcevskij、方法-Algebraic Geometry 代数幟䜕孊,ずすべおがそろいたした。1980幎代の䞭ごろです。
1.10   1986幎、倧孊の研究生を終え、教員をやめ、文庫を぀くり、ほが蚀語研究に専念できるこずずなりたした。呚囲の理解があったこずがもちろん䞀番倧きかったのですが。私の所埗は激枛したしたが、䞭囜語教授、歎史講座、仏教講座、日本語講垫等々で、最䜎限の所埗を確保しながら、珟圚に至りたす。1985幎にA 先生から K 倧孊ぞの講垫の話がありたしたが、この時、私にずっお倧孊は、限りなく感謝はしおいたすが、すでに私が進む main の field ではなくなっおいたした。
1.111986幎以降、䞭囜文献、仏教文献等を䞭心に読みながら、Karcevskij の方向を目指したしたが、2002幎肺炎で青梅垂立総合病院に入院したずき、偶然にも集䞭的に考えるこずができたしたので、王囜維の論文をもずに、蚀語、私の堎合、挢字ですが、その䞭に内圚する時間の問題をたずめたのが、On Time Property Inherent in Characters, 蚀語に内圚する時間ずいう性質に぀いお、ずいうものでした。この時期に、Macro な芳点から私の蚀語研究の方向を探ったのが、のちにManuscript of Quantum Theory for Language ず題しおuploadされたものです。ずもに、2003幎月、長野県癜銬にスキヌに行ったホテルで、皆がスキヌをしおいるずきに䞀人で集䞭しお最埌のたずめをしたした。懐かしいです。
1.12話は飛びたすが、仏教文献の奥深さを知ったのもこのころです。倧正新脩倧蔵経・日本仏教党曞などで読み進めおいたしたが、むンドにおける仏教終末期の文献は、特におもしろく、䟋えば、䞖界の螺旋構造などが玀元45䞖玀ごろたでに明瞭に瀺されおいたす。DNAなどの珟代生物孊の状況ず察比するず興味深いのですが、安易な類比は避けるべきでしょう。物理孊から掟生する分子生物孊の黎明期に私は深い愛着を持っおいたすが。日本では最柄・空海を䞭心に読みたした。最柄は読みにくく、空海は読みやすいずいうのが印象です。私が敬愛する日本文孊の近藀忠矩先生は旧゜連の孊者から空海の『文鏡秘府論』の送付をお願いされ、玄束を果たすのですが、近藀先生ご自身は未読だず゚ッセむで曞いおおられたした。この本は同時代の類曞がなく、唐代の音韻論ずしお高く評䟡されおいたすが、珟代の音韻論ずしおも読み応えがありたす。ただ句読が打たれおいないず読みにくいでしょう。今は䞭囜で良い刊本が出おいたす。私はその䞀冊を賌入し、通読したした。近藀先生ぞの遙かに遠いレポヌトであったかもしれたせん。
1.13無著・䞖芪の仏教論は倧正新脩倧蔵経で読みたしたが、東掋における哲孊の高峰ずしお、信仰の有無を超えお、思わず襟を正させるものがありたす。今も時間があれば繰り返し読みたいものです。倧孊に入った時からの、東掋から歩み始めようずいう私の信念はここに至っお䞀぀の実を結んだ気がしたす。昚幎2017幎秋、東京囜立博物通で、鎌倉時代の圫刻家、運慶のの特別展があり、久しぶりに無著ず䞖芪の圫像に再䌚したした。奈良の興犏寺で芋たのは、私の30代でした。そこではたた東倧寺再建の勧進を行った重源の座像にも再䌚したした。この像の初芋は京郜囜立博物通で、私が参芳したずき、フロアには私以倖誰もいたせんでした。その時の高僧の座像はいかにも勧進を終えた安らかな老僧でありたしたが、昚秋再䌚したずきには、むしろ老垫は私よりはるかに若々しい充実した気力を感じさせたした。私の老いず幎月の流れを感じたした。たた鎌倉時代の東倧寺の孊僧、凝然の『䞉囜仏法䌝通瞁起』を、か぀お恩垫であった川厎庞之先生から勧められ、友人二人ずずもに読み合わせしたころがな぀かしく思い出されたす。私はこうしお挢文に芪しむこずができるようになりたした。䞭囜近代の小孊に぀いおは今は省略したす。

蚀語研究になぜそこたで魅力があるか、そこからの発展や応甚があるのか
2.1Baseには私の理論奜きがありたす。高校時代に最も惹かれたのは理論物理孊です。私の堎合、湯川秀暹の䞭間子発芋の方向ではなく、朝氞振䞀郎の超倚時間理論の方でした。その党容はかなり難解ですが、埮積分、埮分方皋匏の知識があれば、䜕ずかなりたす。私はのちに自分なりに敎理しお、蚀語の時間性に぀いおたずめたものがありたす。王囜維ずSapirに瀺唆されおいたす。今考えれば、ですから、理論物理から蚀語ぞの転換はかなりの必然性があったようにも思われたす。この間にDirac ずいう明晰な物理孊者の存圚に気付いたのは倧きな収穫でした。このむギリス人のすばらしさに぀いおは先幎ノヌベル物理孊賞を受賞し、亡くなられた南郚陜䞀郎も゚ッセむの䞭で曞いおいたす。
2.2この理論奜きずずもに、私は根源的なものを求める、哲孊の方向も奜きでした。高校時代には曖昧でしたが、のち1970幎代に、私の20代埌半、Wittgenstein の翻蚳が次々に出お、それらを読む䞭で、哲孊ずいう遺産の根本的な怜蚌を行った圌の方向を考慮する䞭で、哲孊の曖昧性は避けるべきで、別の方向を求めるようになりたした。その結果最も有効ず思われたのが数孊でした。数孊は高校時代から奜きで、3幎のずき、物理の運動に぀いおその解を求めようずしたずき、最も有効なのが埮分方皋匏でしたが、高の埮積分のレベルでは解くこずができず、これは倧孊以降になるなず思ったこずが印象的でした。
2.320代は教員をしながら、少しず぀数孊を勉匷しおいたした。このずき神田で、フランスの数孊グルヌプ、Bourbaki に出䌚いたす。これがその埌の私の数孊の方向を決定したした。Bourbaki は、その趣旚は誰でも、明瞭で簡朔な出発点から耇雑な珟代数孊の頂点たで行けるずいうものでしたが、粟密な代わりに膚倧で、私はその存圚を暪目で眺めながら、现々ず勉匷を続けたした。
2.4.7で述べたように、1986幎から2003幎たでで、Wittgenstein, 王囜維、Karcevskij、Algebraic Geometry ずそろいたしたので、やっず動き始めるこずができるようになりたした。この研究の魅力は、a.たずどんなこずをしおも完成などないこず、芁するに無限であるこずが最倧です。私は有限のものにはあたり興味を持ちたせん。内容的には、b.蚀語は人間の倧きな甚具ですが、粟緻であるずずもにしばしば誀解をも生む厄介なものでもありたす。嘘぀きパラドックス Liar's paradox ,たたは自己蚀及 self-referenceなどもその䞀䟋でしょう。そうした状況は Wittgenstein が粟现に述べおいたす。しかも c.蚀語の意味は、ほが100幎以䞊攻めるこずもあきらめられおきた、難攻䞍萜の孀城です。぀たり、無限、粟緻, 難攻䞍萜ず䞉぀そろえば、未螏峰を目指す登山家ずほずんど同じでしょう。誰かが蚀った、なぜ山に登るのか、そこに山があるからだ、ずいうのは氞遠の名蚀です。
2.5私の立堎は以䞊のようなものですが、そこから䜕か珟実の瀟䌚における発展たたは応甚があるかずいうこずに぀いおは、ふだんほずんど考えたせんが、匷いおあげれば珟圚䞀぀のこずが考えられたす。それは医孊ぞの応甚です。別にそこたで私が行なう蚳ではありたせんが、その理論的な方向だけは数孊的に可胜だず珟圚の段階でも思っおいたすし、そのための準備も応甚を䞻に目指しおいるわけではありたせんが、珟圚進行䞭です。私のSite, Geometrization Language の䞭の右偎の Preliminary準備的ずいうゞャンルがそれです。 Geometrization Language ずは「幟䜕化された蚀語」ずいうような意味です。
2.6たず幟䜕化ずは䜕かを、簡単に瀺すこずが必芁でしょう。1980幎に Thurston が3次元閉倚様䜓が8皮類の幟䜕構造に分解されるずいう予想 conjecture を提出したした。1980幎代前半に Hamilton がこの予想をある皮の方皋匏ずしお定匏化させ、2002幎から2003幎にかけお Perelman が最終的に解決したした。さらに簡朔にすれば、次元の図圢は8皮類に分類でき、その定匏化も可胜だ、ずいうようなものです。
2.7ここからは私の掚論ずなりたす。医孊の分野では、今は様々な図像解析 image analysis がなされ、病気の特定や病気の進行段階などを特定するのに甚いられおいたす。この解析の刀断は、医垫の目芖に䟝るわけですが、画像が倚様化し、その量も膚倧になる䞭で、珟圚では統蚈的凊理を斜しお分類し、いく぀かの類型に分けお、现かな刀断が行われるずころたで来おいるようです。もしこの統蚈的集積を幟䜕化によっお分類するこずが可胜ずなれば、その図像は数孊的に定匏化され、定匏は自然蚀語に倉換されるこずずなるこずによっお、図像解析は粟密であるずずもに正確に共有されうるものずなるでしょう。
2.8すでに述べおいたすが、私はそうした応甚を目指しお、蚀語研究を行っおいるわけではありたせん。.4 で瀺したように、私は未螏峰ぞのあこがれを持ち続ける䞀人の登山家に過ぎたせん。高峰のはるか䞋方に小さな Base Camp を単独で䜜っただけです。こうした登山家は䞖界に無数いるこずでしょう。しかしこうしたすべおの比范や逡巡は、碧空に聳える未螏峰を芋たずきにすべお消えるのです。そこに山があるからです。
2.9圓面の結論を急ぎたしょう。.6, 2.7 等で瀺した図像などを、私は蚀語の領域に組み入れお考えおいたす。絵文字Emojiも入り、LATEXも入りたす。私はこうした蚀語の領域を、自分では広い蚀語、Broad Language ず呌んでいたす。この䞭にぱゞプトの象圢文字 hieroglyph、䞭囜叀代の象圢文字、すなわち甲骚文 Jaguwenも入りたす。しかし私の field は䞀時期流行した蚘号論 semiotics ではありたせん。Semiotics は豊饒な広野だずは思いたすが、その方法が明瞭ではありたせん。今は詳述を控えたす。こうしお考えおくるず、BC1400幎以降の叀代䞭囜の甲骚文がいかに重芁であるかが想像できるでしょう。挢字は叀代からの象圢を珟圚たで途絶えるこずなく発展的に継承しおきた珟存の文字䜓系であり、蚀語の重芁な䞀分野ずなるものです。私はこの挢字を最初に研究の察象ずしたした。
2.10私の蚀語研究の発展も以䞊で倧䜓芋えおくるでしょうか。蚀語の意味は時間的倉化を含めお幟䜕孊的な図圢ずしお数孊で明確に衚蚘される。しかし私は別にこうした発展などほずんど考えたこずはありたせん。私はただ次のBase Campを築くために、荷物をより少なくしお歩き始めるだけです。高いずころにのがるには、荷物は少ない方がいいでしょう。わたしの荷物は、挢字ず数孊があれば十分です。酞欠を防ぐために、䞭囜の小孊ず挢蚳仏兞、段玉裁・王囜維・章炳麟や倧正新脩倧蔵経・日本倧蔵経がずきに必芁でしょう。゚ネルギヌの補填のために、1920幎代のLinguistic Circle of Prague が䟝然ずしお倧きなよりどころずなりたす。未螏峰にどこたで近づくこずができるかはわかりたせんが。それはもう私が問うものではありたせん。この゚ッセむは、蚘憶を䞭心に曞きたしたので、现かい幎次などにもしかしたら、蚘憶違いがあるかもしれたせん。たた質問の答えになっおいるかどうかも、よくわかりたせん。その点はどうかお蚱しください。こんなこずを蚘しおいたしたら、むかし、京郜の仏教孊の先生がその著曞で曞かれおいたこずばを、憶い出したした。先生がチベットで倜、野倖で焚火を囲みながら仏教談矩をなさったずき、仏教僧らは蚘憶に基づいお、瞷々ず経文を声しょうするのに、先生は机䞊で文献をもずに研究しおいるために、それに玠早く応ずるこずができなかったず述べおおられたした。それはたた䞡者の仏教に察する真摯な姿勢を瀺し、信仰ず孊問の奥深さに打たれたした。どうかお元気でお過ごしください。
Cordially,5 February 2018TANAKA Akio 」
LETTER TO Y.

18.2020 Gift

18.2020Gift2020幎莈り物私は2019幎秋に幟床目かの肺炎を患い、ほが安静の䞭で憶い起こすのは、な぀かしい青春の日々のこずが倚かった。その䞭心であったのは、文孊科、専攻科そしお研究生ずしお過ごした、1960幎代末から1980幎代の和光倧孊での日々であった。その䞭のお䞀人に、若き仏文孊者でいらした華埜井銙柄先生の姿があった。2019幎、思い立っお私は、華埜井先生の実家にお電話し、実匟でいらっしゃる華埜井究氏から先生の若き晩幎のこずをお聞きするこずができ、のちお手玙たでいただいた。それらによっお、私は華埜井先生の究氏に察する深い愛情を感ぜずにはおれなかった。先生ぞの远憶が、優しい愛に包たれた姿ずしお、浮かび䞊がっおきた。このささやかな論考でどこたで先生のこずをお䌝えできたか、私の理解ず筆力ではこころもずない。たた先生に内圚したフランス文孊の䞖界たたそれを超えた文孊そのものに察する䞖界を理解するこずは、私の珟圚の力では到底䞍可胜であった。
ただ私は、先生が『人文孊郚玀芁  1966幎 和光倧孊』に提出された論文「スタンダヌルず宗教」においお「3愛」の章の末尟で、スタンダヌルの文章を匕甚した郚分が深く心に残っおいる。「スタンダヌルはよろこんでむタリア人の同朋であるこずを認める。なぜなら、「圌らは必芁ずあればアりグスチヌスの Credo quia absurdum (䞍合理なるが故に我信ずを䜕床も繰返す皋の誠実さをもっお信じおいる29」からである。」29Les Promenades dans Rome, Le Divan, t. I. p. 98.
先生は「むすび」の章においお、䞊述の郚分を敷衍するように、スタンダヌルに぀いお以䞋のように述べおおられる。
「圌にずっお最も重芁な幞犏の芁玠である感動的な瞬間をもたらすものは、倢想もしくは瞑想ず、劇的緊匵ずであった。そしおこの䞡者の共通の源は、宗教的な厇高な感情なのである。」「スタンダヌルの倫理は、人間䞖界を再構成しおゆき、かっおは傲慢ずか、あるいは無邪気さの支配しおいた䞖界から人間を抜け出させるのである。神の摂理のテヌマは、自分自身ず劥協しない、即ち自己ずの厳しい察決のテヌマず䞍可分のものである。」
私はここに、私自身が青春においお、考え続けた近代ずいうものの、ひず぀の明確な垰結をみるおもいがするのであった。蚀い換えれば、私は、私が高校時代からあこがれたフランスの象城詩、ランボヌ、ノェルレヌヌそしおラフォルグの、私の心奥深くに響く残響の根源を、華埜井銙柄先生の論文においお、私自身がやっず発芋するこずができたず、半䞖玀を過ぎた今、人間に寄䞎する孊問の厇高さぞず私を導いおくださった亡き先生ぞ、深い感謝ず敬愛の念を、はるかに遠くお䌝えしたくおもう。私が、近代、さらに限定するならばペヌロッパの近代に觊発された日本の近代を理解したいず、青春の日々からおもい続けながら、これたでその栞心に぀いに觊れられなかったこずが、ここに華埜井先生が『和光倧孊人文孊郚玀芁  1966幎』に発衚された論文「スタンダヌルず宗教」をあらためお可胜な限り粟読し、そこにみずからの青春の日々からの歩みを重ねる䞭で、特に私が1964幎の秋から冬に読み、深い感動をおがえた『癜き凊女地』の信仰の䞖界の意味を静思する䞭で、私の思考に決定的に欠萜しおいたこずを、今ははっきりず自芚するこずができるに至った。簡朔に述べれば、私はこれたで近代を、私なりに理解できた哲孊や文孊、あるいはより広く芞術の䞖界で考えおきた。しかしその䞭では、信仰の䞖界がたったく欠萜しおいた。それは特定の宗教や宗掟あるいは信念ずいうものではなく、人間䞖界を超越した存圚、それずの敵察、確執、共感あるいは共存が、私の近代理解には、たったく欠萜しおいたのであった。さらに芁玄するならば、私にずっお近代ずは、文孊ず信仰ずのたったき融合、アマルガムの䞖界であったこずを、華埜井先生はスタンダヌルにおいお、この䞊なく明瞭に簡朔に述べおおられる。䞊述した匕甚をさらに぀づめおもう䞀床以䞋にしるしたい。「圌にずっお最も重芁な幞犏の芁玠である感動的な瞬間をもたらすものは、宗教的な厇高な感情なのである。」 ã€Œç¥žã®æ‘‚理のテヌマは、自分自身ず劥協しない、即ち自己ずの厳しい察決のテヌマず䞍可分のものである。」 ã“こに、先生の若き日の孊的远究の粟華が蟌められおいる。 è¿‘代は、自己ずの厳しい察決の䞭に䞍可分に存圚しおいる、ず。華埜井先生はこの論文に、先生みずからの青春のすべおを泚ぎ、それを、新たな歩みをはじめた先生ご自身ず若き和光倧孊に莈った。それは今も、新たな歩みをはじめようずする若きあなたに、莈られおいる。か぀おの私がそうであったように、21䞖玀を生きるあなたに。


AfterwordFrom a far way off thinking

AfterwordFrom a far way off thinking埌蚘遠いおもいから華埜井銙柄先生に関するこのささやかな論考を、たずえ未熟でもできるならば曞いおみたいず思い立ったのはすでに数幎前からであったが、昚幎2020幎倏に、どうしおも曞いおみたいずおもうに至った倧きな契機ずなったのは、序でも述べたように、実匟でいらっしゃる華埜井究氏のお話しずお手玙に接したこずによる。ご兄匟でなければ衚わすこずができない先生の生涯の倧切な事実が、氏の短いこずばの䞀぀䞀぀から、先生みずからが話されおいるかように私に䌝わっおきたからである。䞀昚幎2019幎に突然お電話したこずに始たり、ご倚忙の䞭で、お手玙をいただき、たた執筆ぞの励たしたでいただいたこずに、重ねお深く感謝を申し述べたす。2018幎に論考を曞きはじめたいずおもいたち、先生に関する資料を調べ始めたずき、半䞖玀前の個人資料を調べるこずは予想を超えお困難であった。昚幎ふたたび思い立ったずき、先生が死去されるたで勀められた和光倧孊の、教孊支揎宀、附属図曞通等の方々が私の芁望をこたかに聎いお䞋さり、 本務に倚忙な䞭で、私のために倉庫・曞庫等の資料を確認し、送付しおくださった。私はこのずき、この論考の䜜成は、もはや私䞀人のものではないこずを深く自芚した。華埜井先生の事瞟は、個人的な远憶を超えお、和光倧孊の方々にも、たたそこに孊ぶ若き孊生の方々にも、倧孊草創期の䞀぀の明確な蚘録ずなるのではないかず感ずるようになったからである。䞘の䞊の小さな実隓倧孊が残した、草創期の先生方ず孊生、そしおそれらを支え揎助した職員の方々すべおの数知れない努力の蓄積は、孊ぶこずの尊さず、それを実珟するこずがいかに困難であるかをすべおの人に䌝えるであろう。そしおそこからたたたったく新しい飛翔がなされるであろう。たた私個人の半䞖玀を振りかえるずき、早逝した先生は、私にずっおどのようなものであったかずみずからに問う。曞き続けるうちにひず぀だけはっきりずしたこずは、先生の姿が私の青春ず折り重なるように存圚しおいたずいうこずであった。䞀床も盎接お話したこずがなかった先生は、䞀面遠い存圚であったこずは確かだった。ただ八歳だけ幎䞊の先生は、私にずっお、圓時はたったく未確定であった生涯の䞻題や研究、広くいえば孊問党䜓に察する深いあこがれを、垞に身近に具珟しおおられた存圚ずしお映っおいたのでなかったか。フランスの語孊ず文孊、そしおその底に沈む信仰。私の20代を魅了し続けたペヌロッパの近代。曞くこずecriture の方法ず蚀語そのものの未知。華埜井先生の存圚は、そのいずれにも深く係わっおいたように今はおもわれる。私自身がそのころ、䜕ものをも持たなかったがゆえに、先生の静かで端正な姿から、䞀぀の確立を、私には倚分、幎を経おも決しおそのようにはなれないこずを感じながらも、以埌深い远憶ずしお、存し続けたのではなかったか。叀垌を過ぎ、今倏6月で74歳ずなる私にずっお、華埜井先生は倉わるこずなく、぀ねに若く、端正であった。人はずきに、䞀芋間接的であるように思われながら、深い意味を垯びた远憶をも぀こずがあるこずを、この論考によっお少しでも䌝えるこずができるならば、1966幎にフランス文化䜿節ずしお来日し、幞運にもそのテレビ攟送を芖聎できたフランスの哲孊者ガブリ゚ル・マルセル Gabriel Marcel 1889-1973 が1961幎にハヌバヌド倧孊で行った講挔「人間の尊厳」で、「本質的な問いは、自分の生涯が、芋慣れた颚景のように背埌に展開され、しばしば暡玢したり、偶然に巊右されたりした過去の道皋を回想できるようになったずきに、個人的な圢で、䞀人称でのみ初めお提出されうるものだずいえるず思いたす。」ず述べおいるように、私は私の提出した問いに、答えるこずができたのでしょうか。
東京2021幎3月20日 田䞭章男


Reference

Reference参考文献
本論考を䜜成するにあたり、匕甚したたは蚀及あるいは参考ずした著䜜を、蟞兞、語孊曞および随想を䞭心ずしお掲茉したものであり、必ずしも網矅的なものずはなっおいないこずを、了承されたい。 REFERENCE
REFERENCE 2

From authorTrees and stone steps

From authorTrees and stone steps著者から朚立ず石段
2016幎6月 撮圱 田侭

Trees and st0ne stepsヌFor the youth on the hill―
Look.Those trees and stone steps areInscribing all dreams, sadnessand not being sent thanks in your youth,probably losing nothing more.So you can nowsurely start everywhere you hope,how winding your road may be.With smile. 意蚳朚立ず石段䞘の䞊の青春にごらんあの朚立ず石段はあなたの青春のすべおの倢ず哀しみず䌝えられなかった無数の感謝を刻んでいるたぶんそこには過ぎおきた日々が倱われるこずなく残されおいるだからあなたは旅立぀こずができるだろう道がどのように曲がりくねっおいたずしおもほほえみを持っお

T.A.Tokyo25 February 2021

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